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郷愁

難解な童謡

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   難解な童謡 ~あの子はだあれ~

 いつか、童謡『子守歌』を聴いていて、
 「坊やのお守りは どこへいった」
のところで、歌の状況が分からなくなっていしまってパニックになってしまったことがある。
 「あれ?この歌を歌っているのは、お守りではなかったの?ということは、一体だれが歌っているのだろう。母親?いやそれにしては『里のおみやになにょもろた』などと坊やに聞いているところをみると、母親ではなし、さて・・」
 この時、童謡というものは難しいものだなあとしみじみ思った。
 以来、童謡の歌詞が気になりだして、他にも意味の分からない童謡があるのではないだろうかと、注意していたところ、NHK第一放送で、『あの子はだあれ』(細川雄太郎作詞 海老沼実作曲)が流れてきたので、注意して聞いていた。
 この歌も 、状況が掴めないところが多く、やはり童謡は難解なものであるということを改めて確認した。

 あの子はだあれ だれでしょね   なんなんなつめの 花の下
 お人形さんと 遊んでる      かわいい美代ちゃんじゃ ないでしょか

 あの子はだあれ だれでしょね   こんこんこやぶの 細道を
 ごっこで 遊んでる      隣の健ちゃんじゃ ないでしょか

 あの子はだあれ だれでしょね   とんとん峠の 坂道を
 ひとりで てくてく歩いてる    お寺の小僧さんじゃ ないでしょか

 あの子はだあれ だれでしょね   お窓にうつった 影法師
 お外はいつか 日が暮れて     お窓にお月さんの 笑い顔

 この歌を歌っている女の子は一体どういう子であろうか、なかなかの難問である。
 それでは、仮に、この女の子の名を『花ちゃん』としておこう。まず花ちゃんの視力はどうなっているのか、という問題から考えてみよう。
 「なつめの木」は、私の実家にも一本あって、毎年、赤い(暗紫色にもなる)俵のような形の実が鈴なりになり、よく食べたものである。おいしいというほどのものではなく、どちらかといえばそっけない味であった。でも、まあ食べられないでもなかった。
 実以上にそっけないのがその花である。まことに目立たない花で、これを「花」と自覚したことさえなかった。確か白か薄黄色かの小さな花であったと記憶している。とても人の目を引くようなものではない。
 にもかかわらず、花ちゃんは、そんな目立たない花を「なつめの花だ」と認識できたのに、その下で遊んでいるのが、だれだかはっきりとは識別できなかったとは不可解なことである。
結果的には、“かわいい美代ちゃん”だろうと推測できたのだが、美代ちゃんとはいつもよく遊んでい仲良しなのではないのか。
 この時、花ちゃんの視力が落ちてでもいたのだろうか。あるいは、 一歩ゆずって、なつめの木は、日ごろの彼女たちの遊び場にあるから、勘で分かるのだと仮定したとしよう。
 でもさ、美代ちゃんが抱いているのが「人形だ」と分かる距離なのだから、美代ちゃん自身を識別できないというのでは、美代ちゃん、可哀想。あるいは,美代ちゃんて、あんまり「かわい」くないんじゃないの。

 二番。
 「健ちゃんじゃあないか」と予想される男の子が、竹馬に乗って遊んでいる。どういうわけかこの子は、「こんこんこやぶ」の中の細道で遊んでいる。通常、竹馬は広い場所で遊ぶ。 私も、子供のころ、自作の竹馬によく乗って遊んだものだ。結構高い竹馬にも乗ったし、中には、屋根にはしごを架(か)け、そこから乗ったりする者もいた。随分危険なこともした。でも、竹馬というものは広い場所で遊ぶというのが定めであった。 しかるに、健ちゃんは、なんと“こんこんこやぶ”のしかも“細道”で遊んでいる。
 このことからして、健ちゃんは特異な性格の持ち主か、相当運動神経のいい子だ。とすれば「あんなところで遊ぶのは、健ちゃん以外にない」と、即座に断定できるはずだ。
 一歩ゆずって、この歌詞は、「こやぶの細道“を”」なのであって、「こやぶの細道“で”」ではないということである。“を”は「通過する」ことを表す。したがって、健ちゃんは、今まさにこやぶの細道を通過中で、その先にある広場に出るところかも知れない。
 でもさ、健ちゃんは竹馬に乗るのが上手いから、相当高いのに乗っているわけでしょ。だったら、健ちゃんの姿・形は相当はっきり見えるはずだよ。それにもかかわらず、“健ちゃん”と断定しないというのはおかしい。
 そこには何かわけがあるに違いない。 考えられることは、あまりはっきりと「健ちゃん!」と言ってしまうことには、はばかられものがあるということだ。つまり、健ちゃんに対して、なんにか特別な感情を持っているということである。高尚に言えば思慕の念というやつだ。
 ところで、花ちゃんは、なん歳なのだろうか。この歌の調子からいって、まだ幼いような感じがする。でも、男女の仲に歳は関係ない。いわば「筒井筒の恋」というやつだ。
 逆の状況も考えられる。つまり、花ちゃんが健ちゃんを嫌っているということだ。嫌っているから、はっきりと「健ちゃん」とは言いたくないということもある。しかし、これはちょっと無理な想定のようだ。なぜなら、嫌っているのだとすれば、健ちゃんからすぐ目をそむけるはずだから。
 やはり、思慕の念が、はっきり「健ちゃん」と言ってしまうことをはばからせたのだ。 実は四番目の歌詞で、この花ちゃん、極めて情緒豊かな子であるということが分かるのだが。
 
 三番。
 これはもう、信じられないことだ。
 「峠」というからには、花ちゃんがいる位置から、小僧さんが歩いている所までは、相当の距離がなければならないということだ。それにもかかわらず、歩く様子まで詳細に分かるとは、とても「視力が落ちていた」などというどころではない。そんな遠くの峠を歩く人を「お寺の小僧さんじゃないでしょか」と、予想できたのだ。
 でもさ、それでは、今までの美代ちゃんや健ちゃんに対する判断・予想とずいぶん乖離(かいり)してしまうのではないの。
 一歩ゆずって、珍念さん(仮の名)は坊主頭だから、どんなに遠くても、それと分かったのだとしよう。でも、あの当時の子供は、みんな坊主頭ではなかったのかしら。
 「墨染の衣を着ていた?」
 「珍念さんは小僧さんとはいえ、そんじょそこらのいたずら坊主の歩き方とは格が違う。いわば知念さんからはオーラ―が出ているので、峠の坂も関係なく分かるのだ?」 
 でもねえ、「てくてく歩いてる」っていうのが気になるよ。

 いずれにしても、一番から三番までの歌詞を通して分かることは、この花ちゃんは、相当の“推理魔”だということだ。あるいは、“実証主義”の“考証学的人物”といってもいい。相当はっきりしたものでも簡単には結論を出さない性格なのだ。何でも一度は疑ってみないとすまないのだ。歌の調子は幼いながら、花ちゃん相当の人物である。

 この子の人物像をはっきり決定付けているのが、四番だ。
 「お窓」に映ったものを、“影法師”とだけ表現し、それ以上推量することを控えている。さすがの推理魔も、影法師をまで「だれだれじゃないでしょか」と言ってしまったのでは、人格を疑われてしまうことを恐れたのだ。
 そんな子供離れした配慮まで持っているのが、花ちゃんなのだ。
 そのくせ、最後は、ちゃんと「お月さんの 笑い顔」と子供らしさを失わない愛らしい情緒を残して、締めている。
 なんと、花ちゃんは、推理魔的、考証学的人物であると同時に、文学的少女でもあった。

 こうみてくると、童謡というものは、相当深いものを持っているもので、『あの子はだあれ』を通して、童謡の深淵(しんえん)に触れた思いがした。「論理性がない」などと言ってはいけない。深く読み取る者のみが、童謡の神髄に触れることができるのだ。

 ところで、「お窓にうつった影法師」は「お月さん」のことだったのかしら。



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