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源氏物語

源氏物語たより269

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   思ひなしなることは、さぞ侍る 源氏物語たより268

 標題の「思ひなしなることは、さぞ侍る」は、朱雀帝が故桐壺院の夢を見たことを弘徽殿女御(大后)に告げた時に、彼女がぴしゃりと帝に言ってのけた言葉である。彼女の剛毅さがいかんなく発揮されている言葉である。

 須磨に流謫の身にあった光源氏は、三月一日、海辺に出て禊をしていた。その最中に彼が、神を冒涜(ぼうとく)するが如く
 「私には何の罪もない。八百(やほ)よろずの神よ、私を可哀そうだと思ってほしい」
と言うや、突然土砂降りの雨となり、その後何日にもわたって風雨が荒れ狂い、雷まで落ちかかってきた。
 ちょうどそんな時に、都も大荒れの天候が続き、交通が遮断し、官人たちは内裏にも通えないという事態になっていた。この年は朝廷に対する啓示がなにかと多く不穏な状況にあった。
 三月十三日の夜、朱雀帝の夢に、故桐壺院が現れた。
 『(院の)御気色いと悪しうて、(帝を)にらみ聞こえさせ給ふを、(帝は)かしこまりておはします。(院が帝に)聞こえさせ給ふ事ども多かり』
 どうやら源氏を流謫の身に追い込んだことを怒っていられるらしい。驚いた帝はこのことを早速母・弘徽殿女御に伝えた。ところが彼女は平然とこう言い放つ。
 『雨など降りて、空乱れたる夜などは、思ひなしなることは、さぞ侍る。軽々しきやうに思し驚くまじきこと』
 「日頃気にしていることがあると、夢に現れるものだ、軽々しく思い悩み騒ぎまわるものではない」というのだ。なんと毅然とした厳しい言葉であることか。
 不思議なことに、この夜、源氏の夢にも桐壺院が現れていた。

 『明石』の巻には、啓示や夢のお告げなどが頻発し、しかもそれが物語を突き動かしていっている場面が多い。歴史に忠実で現実に齟齬(そご)しないよう常に気を配っている紫式部にしては珍しいことである。「怪力乱心」を語らないのが紫式部のモット―であるはずなのに、これはどうしたことであろうか。
 「怪力乱神」とは、『論語』の中の「子、怪力乱心を語らず」からきたものである。孔子は、「人知では推し量れず、理性では説明できない」ようなことは絶対語らないということだ。
 紫式部も物語を創作するに当たっては、「偶然」や「人知を超えたもの」や「非現実的」なことについては極めて慎重である。読者に「そんな馬鹿な」というような批判を持たせないよう極度に神経を配っている。子供だましの物語ではないのだ、従来の物語とは違うのだという彼女の自負心が強く働いているものと思われる。

 それでは、『明石』の巻で、夢を中心としたいくつかの例を見てみよう。
 まず、明石入道の場合であるが、彼は、元々親が大臣という家柄であった。彼自身も「近衛中将」という出世コースにあったが、偏屈な人柄が災いしたものであろう、将来を捨てて自ら受領に身を落としてしまった。
 しかし、子孫繁栄への期待は捨ててはいなかった。自分の子孫はやがて都で花咲く時がくるのだという意気込みは常に持ち続けていた。娘(後の明石姫)が生まれる時に壮大な夢見をしている。彼はこの夢に将来を掛けることにした。そして、毎年春秋二回、住吉神社に詣でてはその夢が叶うよう祈ってきた。
 そしてついに、娘が源氏と結婚することで、やがて孫が中宮になり、ひ孫が東宮になるという望外の現実となって、夢は叶うことになったのである。
 しかし、夢を信じることで、現実にこんなことが起こりうるものだろうか。

 入道は、この大願を、ただ神仏に委(ゆだ)ねてばかりいたのだろうか。そうではないと思う。恐らく彼は、チャンスの訪れを豹のように狙っていたのだ。大国の元播磨守とすれば、都の情報などは逐一耳に入る。源氏が須磨に流れてきた情報など、真っ先に掴んでいたはずだ。しかし、すぐに源氏に接触するのは、世の中の動向(右大臣の天下)を斟酌(しんしゃく)すれば、極めて危険な行動ということになる。それに何よりも源氏に災いが及ぶ。
 源氏が須磨に一年間流離(さすら)っていたのは、入道にとっては幸いなことであった。なぜならこの間に世の中の動向も変わっていくかもしれないし、源氏に対する人々の同情も増してこよう。
 また、ひょっとすると都の大暴風の情報や不穏な世の様や朝廷に対する啓示の噂も彼の耳に入っていたろう。
 彼が、暴風雨が止むか止まないかのその朝、急遽須磨に船を出したのは、決して夢のお告げばかりではない。待っていたのだ、その時を。
 それに、受領の娘が超上級貴族の妻になるということは、例のないことではない。源氏物語が書かれたころの、一条天皇の母・詮子(円融天皇女御、道長の姉)は、従四位下摂津守(受領)の娘である。だから、明石入道の願も際立って異常なものとはいえない。だから、源氏に懸ければ自分にもそのチャンスが巡ってくることを計算に入れていたのだ。つまり、入道の子孫の夢のような繁栄は、決して夢物語ではないということである。

 さて、それでは源氏の夢について考えてみよう。彼はいつも院のことを
 『年ごろ夢の中にも見たてまつらで、恋しうおぼつかなく』
思っていたからこそ、院が夢に出てきたのだ。日頃心に懸けていることが夢に現われることは誰にでもあることだ。
 それに須磨での一年間のわび住まいには、ほとほとまいっていた。院の夢を見るまでもなく、ここ須磨を離れたいという気持ちはどれほど強かったことか。そんな思いでいる時に、家まで焼けるという未曽有の天災が何日にもわたって続いていていた。彼にとっては、入道の船の迎えは、まさに渡りに船であった。

 それでは、朱雀帝の夢はどうだろうか。
 これはもう彼が夢を見なければおかしい程に条件が整っていた。
 確かに源氏を流謫の身に追い込んでしまったのは、彼の意志ではない。弘徽殿女御や右大臣の謀である。しかし、源氏の官位剥奪は帝の勅命であるし、その結果、源氏は須磨に流れていかざるを得かったのだ。配流に処したも同然である。
 彼は、子供の頃から弟・源氏の能力の高さに感服していたし、時には源氏に教えを乞うこともあり、尊敬すらしていたのである。しかも兄弟としても親しい関係にあった。
 にもかかわらず、その源氏を配流に処したのだ。良心の咎はいかばかりであったか、想像するに余りある。日夜そのことで悩み抜いていたはずである。歴史的にも能力あるものを左遷すれば、その報いは受けなければならないという例は限りなくある。罪なくして大宰府に左遷されその地で亡くなった菅原道真の怨霊が、京の町を荒らし回り、雷となって清涼殿に落ちたという事実は、この物語のほんの少し前の話である。源氏の恨みも必ず帝に祟ってくるはずだ。
 特に朱雀帝は、桐壺院から「源氏を後見人として大事に扱いなさい」という言葉まで遺されているのだ。夢で、院の目と合ってしまったその目を病んでしまったのは当然の帰結である。

 誰でも心のうちに屈託を持っていれば、それが夢となって現われるものだ。特に負い目や罪の意識があれば、夢見も恐怖に満ちた厳しいものになる。弘徽殿女御が「思ひなしなることは、さぞ侍る」は、まさに言い得て妙である。
 しかも、夢というものは、奇想天外、不可解千万なもので、どこに飛んで行くか計り知れない。誰がどのような夢を見ようと勝手で、そのことを非難できるものではない。 
 『明石』の巻は、夢のお告げなどが多く、一見おどろおどろしく荒唐無稽な印象がないではないのだが、このように見てくると、決して無理に夢で筋立てしているわけではないことに思い至る。『明石』巻で起こった事象は全てがそうなるように、つまり必然性のもとに構想されていたのである。


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