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郷愁

足が すべて

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   足が すべて

 私の自治会では毎年盆踊りを行っている。でももう一つ面白味に欠ける。なぜかと言えば、手ははなやかに動いているというのに、足がみんな留守になっているからだ。でもこれは私の自治会だけの問題ではない。市民祭りでも踊りのパレードが行われるが、手だけは動いているが足が留守になっているのは同じことである。足こそ命であると思うのだが。

 そもそも舞踊の“踊”の部首は足である、“踊”は、手ではなく足による動作であることを表しているのだ。それに、旁(つくり)の部分の“甬”は、「足をふんばる人」の意味だと、『学研 漢和大字典』(藤堂明保編 学習研究社)に説明されている。
 「“甬”は、人がとんと地面をつきぬくようにふんばり、その反動でとびあがること。“涌”(水がとびあがる)“勇”(とびあがっていさみたつ)と同系の言葉」とある」
とある。このことから分かるように、踊りの善し悪しは足いかんであり、足の動きによって踊りは決まるということだ。

  実は、“舞踊”の“舞”の字も足に強く関係する文字なのである。
  “舞”の下の部分の“舛”という字は、「ゆきちがう」とか「互い違いになって乱れる」という意味で、 さらに細かく見ていくと、“夕”のような部分は左足の、“井”のような部分は右足のそれぞれ足裏を表している。つまり、右足と左足が互い違いになって、ゆきちがうことを意味する漢字なのだ。したがって、“舞”の字の下の部分は、「足が右に行ったり左に行ったり」することで、まさに踊りそのものの象形なのである。
  “舞”の上の部分は、「両手に飾りをもって舞う」ことを表している(以上 学研大漢和字典参照より)。
飾りを持って踊るその上体をがっちりと支えるのが、足である。“舞踊”はまさに足の芸術に他ならない。

 阿波踊りにしても佐渡おけさにしても、あの絶妙な足のさばきがあるからこそ、見る人を魅了して止まないのだ。
 もちろん踊り手の、手の動きが良かったり、表情が良かったりするのも、踊りの善し悪しの一つの要件で、時には、顔の造作の善し悪しで踊りを評価してしまうことさえあるのだが、でもやはり基本は足である。

 以前、“郡上踊り”で有名な郡上八幡に行ったことがある。時あたかも夏真っ盛り、郡上八幡も踊りの最盛期であった。
 ところが、我々が郡上八幡に着いたのは、真っ昼間だったので、郡上の人々は、夜の踊りに備えてか昼休み真っ最中であった。町中で踊っている人はもちろん一人としていない。真っ昼間の郡上八幡ほどつまらないものはない。でも、郡上八幡では、一夏を夜っぴて郡上踊りで踊り明かすのだから、足に力を蓄えるために昼寝をしていても仕方ない。

 その日の泊りは下呂温泉のホテルであった。夕食後、宿の外が騒がしいので、出てみると、ホテルの広場で郡上踊りを踊っている。私は、初めこそ見ていただけだったが、いつの間にか踊りの輪の中に入って夢中になっていた。
 何曲かが繰り返される中で、“春駒”という踊りが特に気に入った。体をひねるようにして、小さくピョンと飛んで跳ねる。そこが、この踊りのミソで、なかなか体力と技術を要する。50半ばの体には相当こたえた。
 それでも、2時間ほどですっかり技術も上達し、踊りの輪の中では、一際目立つほどの腕前、いや足前になっていた。
 旅の仲間が、なかなか帰ってこない私を呼びにきたので、しかたなしに部屋に戻ったが、実のところもっと踊っていたかったのだ。
 ところが、夜中になると、足の痛いこと痛いこと。見てみると、足の親指と人さし指との間に血がにじんでいた。宿の下駄をつっかけて踊っていたので、擦りむいてしまったのだ。それほど激しく踊っていたとは気付かなかった。
 さらに、翌朝は、全身筋肉痛に悩まされた。
 得意になって踊っていて、「だれよりもうまくなった」などとうぬぼれていたのに、実は足の定まらない不安定な踊り方で踊っていた証拠だ。郡上の人々はあの激しい踊りを一月以上にわたって踊り続けるのだから、いかに足腰がしっかり鍛えられているかが分かるというものである。

 大和で毎年行われる阿波踊りの中にも見ものがある。特に見ものなのは、東京の太田区から来てくれる“助六連”である。これには毎年感動させられる。まさに先に述べた「足」である。彼らの足は見事に決まっている。したがって体の線が決まる。体の線が決まっているから心が決まり、踊りが決まる。
 たとえば、“奴凧”だ。奴が、着物の袖を握って、その両手をぱっと横に広げるとまさに奴凧だ。その奴凧が、風に飛ばされそうになってよろけたり、他の奴凧と鉢合わせして思わずおどけてのけぞったり。
 見ていてつい踊りに吸いこまれて、こちらも思わずよろけたり、のけぞったりしてしまう。
 その間、終始地面を激しく踏み締めながら情熱的に踊っていく。
 ある時、踊っている最中に、女の踊り子の下駄の歯が欠けてしまった。どうなるものやらと心配していたら、ツぃと屈んで、下駄の歯を拾うなりふところに入れ、何気ないようすで、相変わらずフラメンコよりも激しい踊りを踊り狂っている。下駄の後ろの歯が一本欠けているというのに、さぞ踊りにくいことであろう。

 次に、男女八人ずつの群舞が始まった。男女が互いに交錯しては離れ、また交錯する。群れては散開し散開しては群れ、一糸も乱れることがない。そして、彼らの膝はあたかも地面に付きそうになるまで腰をかがめて踊る。そして、その姿勢で横に跳び、後ろに退く。最後は、16人がぱっと一点に集まるなり、突然扇のように斜めに広がって、見事に踊り収める。
 踊り終わった先の女の子に思わず声をかけた。
 「あれでよく踊れるね?」
 「よくあることなんですよ。爪先で踊ってますから後ろの歯がなくても何でもありません」

 茶道の達人・松平不昧公が、夜鳴きそば屋のそばの作り方に、茶道の奥義に通ずるものを見たのは、蕎麦屋の手の所作によってではない。蕎麦屋の背筋がしゃんとしていたからだ。彼の丹田に力が横溢していたからだ。丹田に力を横溢させるためには、足腰がしっかりしていなければならない。
 一芸に通じる者とは、みな足腰が定まった者のことである。それが人の感動を呼ぶのだ。



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