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郷愁

漢学者・諸橋徹次博士のこと

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  漢学者・諸橋轍次博士のこと

 この度、新潟県出身のIさんが、新潟県南蒲原郡にある“漢学の里・諸橋轍次記念館”に行ってこられて、とてもよかったとその記念館のパンフレットを私に持ってきてくれた。同郷の好ということもあるのだろう、くらいに思ってパンフレットをもらった。
  ところが、 パンフレットを見て、改めて諸橋轍次博士の偉大さを認識させられた。
 “諸橋轍次”といっても、知らない人が多いかもしれない。あるいは、皇太子・浩宮親王や礼宮親王、紀宮親王の名づけ親であるといった方が分かりやすいかも知れない。
 諸橋氏は、私の出身大学・東京教育大学の前進である東京高等師範学校、東京文理科大学の教授をしていられので、私は、若干はその名と業績については知っていた。
実は、諸橋氏のたぐいまれな業績の集大成である『大漢和辞典』十三巻は、私が大学3年の時に完成されたもので、諸橋氏が東京文理科大学の名誉教授もしていられた関係もあって、我々学生も『大漢和辞典』を買おうではないか、という話しがもち上がっことがたあったのだ。同学の何人かの仲間は購入した。

 ところが、私はすねかじりの学生の身で、とてもそれを買う余裕などなかった。なにせ『大漢和辞典』は、一巻で『広辞苑』くらいの厚さがあり、それが十三巻もあるのだ。あの時の価格がいくらであったのかは、忘れてしまったが、とても一介の学生に買える額ではなかった。教師になった昭和37年の最初の給料が、一万円そこそこであったので、とても、無理な話だ。
 それに、果たして将来そんな立派な、そして膨大な辞典を使うことがあるだろうか、と考えると、「いらない」と言わざるを得なかった。大学の仲間は概ね高校の教師になったので、恐らくあの大漢和辞典を使って授業などをしていたのであろう。私は、幸か不幸か、中学校の国語の教師になったので、使う機会もなかった。

 ところで、諸橋轍次博士記念館のパンフレットを見てビックリした。
 『大漢和辞典』第一巻は、昭和18年に刊行されている。ところが、昭和20年、東京大空襲によって、刊行を予定していた全巻の組版(活字に組んで版を作ること)とその資料のすべてを消失してしまったのである。この時、諸橋氏は63歳。その翌年、彼は右眼を失明。左眼も視力が衰えていた。
 普通なら、この時点で、十三巻もの膨大な辞典の発刊はあきらめていたはずだ。ところが、彼の発刊への情熱は衰えることがなかった。73歳になって、『大漢和辞典』第一巻を改めて刊行したのだ。そして、ついに5年後、全十三巻を刊行した。
 それが昭和35年、私が大学3年の時だった。
 その後、勲一等瑞宝賞を授けられるなど彼の輝かしい業績が認められていった。そして、ちょうど100歳にして、老衰のため永眠される。(以上、諸橋轍次博士記念館パンフレット略歴参考)
 この驚くべき気力はどこから生まれてくるのだろうか。
 私は、いつもこういう人の偉業に触れるたびに「どうしてこんなことができたのだろうか」と不思議に思うのだが、結局、「偉かったからだ」という妙な結論を出して思考を停止してしまっていた。
 いつまでも矍鑠(かくしゃく)としているためには、「常に脳に風を入れていることである」というのが、私の考えてあるが、いくら脳に風を入れるといっても限界がある。特に、“失明”などというハンデを背負った場合は、生きる気力さえ失ってしまうはずだ。それを、諸橋氏は、文字というあの極小の世界に挑んだ。
 “執念”という以外にないような気がする。

 画家には、100歳にしてまだ創作活動をしているなどという人が多い。海原龍三郎も中川一政も小倉遊亀もそうであった。外国では、ルノアール75歳、コロー79歳、マティス85歳、モネ86歳、ピカソ92歳である。もちろん夭折した画家もいる。しかし、概ね長寿である。
 それに比べて、作曲家は、同じ創作活動をしていても若くしてなくなった人が多い。シューベルト31歳、メンデルスゾーン38歳、ショパン39歳、滝廉太郎はなんと24歳である。
 この差は、どこから来るのかはわからないが、画家の方が概して地道さを必要とし、長年こつこつと努力を経て初めて大家として認められる。
 一方、作曲家は“彗星のように現れる”という言葉があるが、持って生まれた才能や瞬間的なひらめきなどによって作品を生む、というところにありはしないだろうか。

 諸橋轍次氏は、画家のような道を歩まれたと感じた。地道に着実な道を。
 諸橋氏の座右の銘は、『行不由径』だという。読みは、「行くに径(みち)に由(よ)らず」である。“径”とは小道をいう。「小道は近道に見える、また、魅力もありそうだ、しかし、私はひたすら大道を行く」との意である。
 東京高等師範学校の校長であり、柔道家である嘉納治五郎氏が、諸橋氏に作らせたという教育綱領の中に、「…一世の化育、遠く百世に及ぶ…その身亡ぶといえども、余薫永く存す」とある。諸橋氏の『大漢和辞典』発刊の業績も、教育と同じく、その“余薫”は百世に及んでいくことだろう。



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