源氏物語

源氏物語たより281

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   乳母子との哀しい別れ  源氏物語たより281

 乳母(めのと)という存在は、主人に対して絶対的忠誠を尽くさなければならないものであるということについては以前述べたことがある。玉鬘の乳母一家などはその典型で、彼らは身の危険をも顧みず献身的に玉鬘に奉仕した。その結果、玉鬘は後半生の幸せを掴むことができたのだ。
 惟光も、光源氏と乳母子(めのとご)の関係にあり、夕顔が急死した場に居合わせなかったことを、彼がひどく悔いているのも乳母子としての責務を果たせなかったがためである。
 当時の乳母や乳母子は、主のためにはすべてを投げうたなければならないという宿命を負っていたようである。

 ところが、末摘花の乳母子である侍従はそれを全うできなかった。
 末摘花は、常陸宮という名門の娘に生まれながら、父亡き後はすっかり没落してしまって、衣食にも事欠くほどの貧窮にあえぐようになった。それでも女房は数人(五、六人か)は残っていたが、いずれも年老いていて役立たずのものばかりである。唯一頼りになるのが、乳母子の「侍従」であった。

 ひょんなことから光源氏が末摘花の所に通うようになってから、何とか生活面の見通しが立つようになったのだが、源氏が須磨に退去してからというもの、経済的にはまた元の木阿弥に戻ってしまった。
 二年半後、源氏は政界に復帰したものの、末摘花のことなど、彼の脳裏からは全く消えてしまっていた。もう源氏の通いなど期待できるものではない。そうなると、源氏が通うようになる以前にもまして、末摘花邸の生活状況は貧窮を極めるようになってしまった。少しでもものの役に立つような女房はつてを求めて、次々末摘花の家を去って行く。残っているのは尾花打ち枯らした老女房だけである。
 そんな中で、乳母子の侍従だけが、唯一才能のある女房として残っていた。侍従は、他の所にも非正規雇用をしながら通い、日銭を稼いでいた。おそらくそのわずかな収入で末摘花を支えていたのかもしれない。

 ところが、この侍従さえ、末摘花の元を去らなければならない時が来た。
 実は、末摘花には叔母がいて、この叔母がとんだ「さがな者(性格が悪い人)」で、あったのだ。叔母は、末摘花の母親が宮様の北の方になったのにくらべて、自分は受領の妻でしかないことを日頃からひどくねたく思っていた。そこで、ことあらば末摘花の鼻を明かしてやろうと、その機会を狙っていた。時には末摘花を自分の娘の琴の家庭教師にしようとさえ考えていたほどである。琴は末摘花の数少ない才能の一つである。
 それが不可能だと知ると、叔母は、今度は末摘花の唯一の頼りである侍従に目を付けた。侍従を自分の娘たちお付きの女房にしようと目論んだのである。侍従は、叔母の甥と結婚した。おそらく叔母がそうし向けたのであろう。
 やがて叔母の亭主が太宰の大弐に任官し、叔母一家は九州に下ることになった。彼女は良きチャンス到来とばかり、この侍従をも九州に連れて行くことにした。
 先に述べたように、乳母や乳母子は、主に対して絶対の忠誠を尽くさなければならないのだが、侍従の夫も九州に下ることになってしまっては、いかんともしがたい。

 九州に下るというその日、侍従は泣く泣く末摘花に苦しい心中を語る。末摘花としても侍従を引きとどめるだけの甲斐性はない。末摘花はこう嘆くだけである。
 『この人さへ打ち捨てんとするを、恨めしうもあはれにも思せど、言い留むべき方もなくて、いとど音をのみたけきことにて、ものし給ふ』
 「侍従が自分を捨てていくことを恨めしいとは思うものの、いた仕方ない。ただ声を出して泣くことしかできない」というのである。
 それでも、別れて行く侍従に対して、長年の恩義に報いるべき形見のものを贈りたいと思うのだが、ない。そこで歯の欠けた我が櫛と自分の髪の毛(末摘花の唯一の長所、髪が長い)を贈ることにした。そうしてこう侍従に嘆き掛ける。
 「あなたの母(乳母)が言っていられたとおり、私のような甲斐性のない者でも、あなたは最後まで私の世話を見てくれると思っていたのに・・私があなたにうち捨てられるのも仕方のないことだけれども、これからは誰を頼りにしたらいいのか。何とも恨めしいかぎりです」
 すると、侍従は苦しい心の内をこう語る。
 「母が申したことは、重々わかっております。今更私が申し上げるまでもありません。長年月、辛いことや哀しいことをあなたと共に忍んでまいりましたが、今回、思わずも筑紫などという遠いところに彷徨っていくことになってしまいました。あなたとはるかに別れて行くことは、私にとってもどれほど哀しいことでありましょうか・・」
そして、「いつまでたってもあなたをお守りし、お世話をしていくことに変わりはありません」と神に誓うのである。
 侍従は、心も空に末摘花を振り返りつつ、叔母のしつこい催促に抗せず車に乗って別れて行く。
 脇役の侍従と末摘花の絡みなので、ふと見過ごしてしまう場面であるが、源氏物語全編を通じても誠に感動的な別れで、映画の一シーンを彷彿とさせる。

 侍従は、相当才能豊かな女性であったようである。末摘花に仕える一方、斎院にも非正規雇用で通っていた。斎院といえば一大サロンを形成するほどの文化人の集まるところである。恐らく侍従は、歌も管弦も書も、あるいは心ばえも飛びぬけて勝れていたのであろう。ただ、末摘花の乳母子であったことが彼女の不幸であった。
 源氏が通ってきた時も、「ウ、ウ」としか言えない末摘花に代わって才気ある応対をして末摘花の危機を救っている。例の雪の日、源氏があられもない末摘花の姿を見てしまった時、侍従は留守であったのだ。もし侍従がいる時であったなら、「普賢菩薩の鼻」をあからさまに源氏に見られるようなことはなかったであろう。
 そんな侍従であるから、主を見捨てて筑紫にまで下らなければならなかった胸中は想像に余りあるものがある。
 彼女が去った後の末摘花邸の有様が哀れである。枯れた蓬や葎の上に雪は容赦なく積もっている。泣き笑いしながら話し相手になっていた侍従も今はいない。
 『霜月ばかりになれば、雪、霰がちにて、他には消ゆる間もあるを、・・深かう積もりて、「越の白山」思ひやられるる雪の中に、出で入る下人だになく、つれづれとながめ給ふ。はかなきことを聞こえなぐさめ、泣きみ笑ひみまぎらはしつる人さへなくて、夜も塵がましくき御几帳のうちにも、かたはら寂しくもの悲しく思さる』




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