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源氏物語

源氏物語たより296

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   光源氏のモデル考  源氏物語たより296

 光源氏のモデルとなっていると言われる歴史上の人物は数多く、これと一人に定めることはできないのだが、そのうちの何人かを上げて、どこに光源氏との共通点があるのか考えていってみようと思う。

 【源 融(とおる)】
 嵯峨天皇の第八皇子。光源氏と同じように臣籍に下っていたが、陽成天皇から光孝天皇に代わる時、「自分も天皇の資格がある。いな、光孝天皇より自分の方が血筋上適任者である」と主張し、天皇になることを望んだが、時の実力者・藤原基経に退けられた人である。
 光源氏自身に天皇になりたいという気持ちがあったのかどうかは微妙であるが、同じ天皇の子として、物語の上で、光源氏にも「天皇に」という話はあり、融と共通性があるといってもあながち間違いではなかろう。
 また、融は京の六条に四町に及ぶ壮大な河原院を建造しているが、これは明らかに源氏物語の「六条院」のモデルになったものである。さらに、融は、嵯峨に「棲霞観(せいかかん)」を造ったり、宇治に別荘(後の平等院)を造ったりしていて、これが源氏物語の「嵯峨の御堂」や宇治十帖における宇治の「夕霧の別荘」に当たると考えられる。
 左大臣として、豪奢で風雅な生活を送っているところなどは光源氏を彷彿とさせる。

 【菅原道真】
 一介の漢学者(文章博士 従五位下相当)でしかなかった道真が、宇多天皇の厚い信任を得て、右大臣にまでなり上り、政を統べた。しかし、それに反発する藤原時平などの讒言にあって、罪なくして太宰の権帥(ごんのそち)に左遷される。これは須磨に流れて行った光源氏の境遇にオーバーラップするものがある。
 特に『須磨』の巻では、光源氏は、何度も道真の故事や詩文を引いて、彼自身が、道真になぞらえられる宿命を負っている者と捉えていたようである。
 このことに関しては機会を見て後に述べてみようと思っている。

 【在原業平】
 平城天皇の皇子・阿保親王の五男。清和天皇の女御・高子(たかいこ)との恋愛関係や伊勢斎宮・恬子(やすこ)との密通などが、光源氏と藤壺宮との密通や斎院の朝顔との恋愛関係になぞらえられるものといえる。とにかくその華やかな女性遍歴と好色は、どちらが勝っているか判断に苦しむほどである。
 業平が女性問題を厭わしく思って都落ちしているように、光源氏も朧月夜との一件で須磨に退去している。
 また、伊勢物語の話は、源氏物語の中でしばしば取り上げられているところである。

 【源高明(たかあきら)】
 醍醐天皇の皇子。母は更衣。臣下に落とされ「源氏」に賜姓された。大納言を経て左大臣となり、政界のトップに。しかし、藤原氏にその権勢を疎まれ、「陰謀あり」と讒言され、太宰の権帥に左遷される(安和の変)。
 ここまでは光源氏と全く同じ境遇を辿った人物である。ただ、源高明は、安和の変で失脚し、罪は許されて帰京したものの、光源氏のような栄華を極めることはできなかった。

 【藤原道長】
 光源氏に共通するものとしてまず上げられることは、ともに「栄華を極めた人」ということであろう。道長については今更言うを待たないが、光源氏も、内大臣から太政大臣として人臣を極め、さらに准太上天皇の位にまで上っている。
 また、両者ともに孫が天皇になっている点でも同じ栄華の道を歩んでいて(もっとも光源氏の子は東宮のままであるが)、一族の繁栄は計り知れないものがある。
 ただ、道長は、紫式部が源氏物語を創作している時の人であり、また物語創作の後援者でもあったので、あからさまに道真その人が、光源氏のモデルであるとは書き表わすことははばからねばならない。しかしながら、『紫式部日記』などを見ると、道真の言動が源氏物語にそのまま取り上げられているのをみると、道長も光源氏のモデルの一人であったことは疑えない。
 それは、皇子誕生における二人の喜びの場面に色濃く出ている。詳しく見ていってみよう。

 道長は、娘・彰子を一条天皇に入れたが、なかなか子供が生まれない。兄・道隆の娘・定子には既に皇子が生まれているので、やきもきしていたのだろう、道長は皇子誕生を吉野の金峯山にまで行って祈願する。金峯山の効験があったのか、ようやく皇子が誕生する。入内して七年目のことである。
 出産に際しては、今度は安産を願って、加持祈祷などを常軌を逸するほどにののしり騒ぐのである。その験厚く、無事に皇子が誕生するや、道長は、皇子の敦成親王(後の後一条天皇)を我がものにして喜ぶ。
 『殿の、夜中にも暁にもまゐり給ひつつ、御乳母の懐をひき探させ給ふに、(皇子が)うち解けて寝たる時などは、何心もなくおぼほれておどろくも(皇子がうつらうつらしてはっと目を覚ますのも)、いといとほしく見ゆ。・・我が心をやりて(道長が一人でいい気になって皇子を)捧げうつくしみ給ふも、ことわりにめでたし。
 ある時は、わりなきわざしかけたてまつり給へるを、御紐ひき解いて、御几帳の後ろにてあぶらせ給ふ』
 「わりなきわざ」とは、おしっこを引っ掛けることである。おしっこを掛けられた直衣の入り紐を解いて、几帳の後ろで乾かしているということである。これが歴史に登場するあの「藤原道長か」と疑わせるシーンで、好々爺丸出しである。

 この皇子出産とその皇子をいとおしむ場面が、何と源氏物語にそのまま登場するのである。明石女御が皇子を出産する時のことである。
 『御修法ふんだんにせさせ給ふ。寺々、社々の御祈り、はた数を知らず』
 安産を祈って信じられないほどの寺々、社々に祈祷をさせたのである。道長の加持祈祷は、比叡の僧正や僧都はもとより、験ある祈祷師、はたまた陰陽師などを招き、所せきほどのものであった。
 そして、若宮が生まれるや、源氏も、若宮のところにやって来て、明石女御にこう声をかけるのである。
 『若宮はおどろき給へりや(目を覚まされたか)。時の間も恋しきわざなりけり』
若宮のことがひっきりなしに心に懸ってたまらないというのである。
 ところが、この時には、若宮は、紫上が自分の部屋に連れて行ってしまっていた。源氏はこう言ってそれを非難する。
 『いとあやしや。あなた(紫上)にこの宮(若宮)を領じ奉りて、懐をさらに放たずもて扱いつつ、人やりならず衣もみな濡らして、脱ぎかへがちなめる』
 紫上が、若宮を独占してばかりいるのは理屈に合わない、というのである。この場合は、紫上が、若宮を独り占めしているのであるが、それは、源氏の思いそのものなのだ。紫上が若宮をいつくしんでいる姿は、源氏の喜びに他ならない。非難しているとはいえ、実は紫上と共に喜びを分かち合っているのだ。
 さて、「紫上が抱っこばかりしているから、若宮におしっこを掛けられてしまうのだ」というところは、道長が、皇子におしっこを掛けられて喜んでいる姿と全く同じことである。道長は、几帳の陰で直衣を乾かしていたが、紫上は、その都度、着物を着替えていたのだ。光源氏はそれを好々爺のように喜んでいる。

 源氏も道長も、この皇子の誕生で、政権を確実なものにし、子孫の繁栄を確定した。ともに「我が世の春」を謳歌できるようになったのだから、おしっこは二人共通の栄華の象徴と言っていいかもしれないが、時の最高権力者の二人が「おしっこ」で繋がっているというのは、皮肉でおかしい。







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