源氏物語

源氏物語たより312

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   源氏物語はなぜ性を描かないのか  源氏物語たより312

 山路を歩きながら素晴らしいことを思いついた。それは紫式部が性を描かなかった理由についてである。この件については、既に「たより」で三回(№24、№53 №196)も書いているので、もういい加減にしておくのが節度ある人間というべきであろうが、あまりの革新的なひらめきに再度書かなければならなくなってしまった。
 実は最近、源氏物語の底を流れるものは
 「もの・ことの変化の相」
というものではなかろうかと思い始めているのである。源氏物語の中に頻出する「あはれ」は、結局「もの・ことの変化の相」と言っていいような気がする。本居宣長の「もののあはれ」も同じことである。これは源氏物語だけの問題ではない。古今集にしても新古今集もにしても同じことが言える。彼らは変化するものに対して異常なこだわりを持ち、それをいかに表現するかに腐心した。

 さて、この世の中で最も顕著に変化の相を見せるものは何であろうか。まず上げられるのが、「自然の移り変わり」であろう。中でも月は毎日変化してやまない。それは満ち欠けの変化だけではない。雲にさえぎられる月、雨に見る月、冬の夜の月,阿波で見る月・・。そして月の出もまた日々刻々変わっていく。
 その他の自然の事象も、花は咲いては散り、樹木の葉はやがては枯れて地に落ちていく。自然は、変化するものの見本市のようなものだ。
 自然に次いで上げられるのが、人の心であろう。人の心ほど移ろいやすいものはない。特に恋の心は変化してやまない。変化するからこそ恋は面白いのだ。相手と相愛の仲にあっても、相手の心がいつ変わるか分かったものではない。古今集や新古今集はそんな恋のデパートである。
 恋が成就した時には恋は終わる。「結婚は恋愛の墓場」とは見事に真理をついている。誰が言いだした言葉だろうか、確かに結婚とは、変化のない惰性の世界に身を置くことである。その「あぢきない」毎日を我慢して過ごすのが結婚というものである。

 これを、逆に見れば
 「変化しないものには情趣がない」
ということである。このことについては、改めて別の機会に述べるつもりでいるが、源氏物語では変化しないものは蔑まれ相手にされなかった。末摘花がその典型である。光源氏に呆れられ疎まれたのは、末摘花の容貌ではない。また彼女の教養や衣装のセンスのなさではない。彼女が少しも変化しようとしない存在だからである。彼女はシーラカンスのようにいつも古体のまま固まっていた。進歩しようという意志も変化しよういう意欲もなかったことが、源氏の癇に触ったのだ。彼女が歌を詠めばいつも「唐衣」「唐衣」である。また、誰それの祝いだと言えば、几帳面にお祝いはするものの、その贈り物が旧態然たるもので、代わり栄えしないことおびただしく、そこには少しの情趣もないのであった。

 というようなことを考えながら山路を歩いていたら、ふと思いついた。それは、紫式部が性を描こうとしなかったのは、「セックスには変化がない」からではなかろうかということである。ポルノ小説はどんなに詳細に「実事」を描いたとしても所詮同じことの繰り返しである。
 実は、この「実事」という言葉は、林望氏からの受け売りで、「そのこと」を言うのだそうである。広辞苑を引いてみたが、はっきりそうとは書かれていなかった。ただ、「実事」の項に、歌舞伎の「和事」が出ていた。歌舞伎では和事は「男女の恋愛、情事の演出方法、またはその場面」を言うのだそうだ。恐らく「濡れ場」のことを言うのだろう。林望氏が嘘を言うとは思えない。
 これから「そのこと」について述べていこうと思っているのだが、「セックス」だとか「性交渉」だとか「性の契り」などとか言う生々しい表現では抵抗があるので、この「実事」を使うことにする。「情を交わす」とか「男女の関係」とか言ってぼかしも通じるとは思うのだが、ことの真相から離れてしまう可能性がある。
 とにかく「実事」での変化は、どう頑張っても四十八しかない。しかもその四十八を尽くしていたのでは、身体がバラバラになってしまう。したがって通常は四分の一の十二がせいぜいであろう。
 確かに藤壺宮との最初の「実事」はぜひ書いてもらいたかったし、二度目のわりない逢瀬も、その場面をもう少し詳しく書いてほしいという思いはあるし、また、紫上との「新枕」では、それなりに危うい雰囲気が醸し出されているのだが、「実事」の場面はなにもなく、翌朝、源氏が紫上の布団を引きやってみたら
 『汗におしひたして(びっしょり濡れて)、額髪もいたう濡れ給へり』
だけで、拍子抜けしてしまわないではない。
 とにかく源氏物語では、「実事」の夜は、すぐ夜明けになってしまうのだ。しっぽり夜を楽しむ間もなく、「鳥も鳴きぬ」とか「人々起き騒ぎ」とか「夜も明けぬ」とかで、終わってしまう。
 でもそれでいいのだ。「実事」をいくら詳細に描いたところで限りがある。紫式部に描けないはずはないのだが、書けばみな同じになってしまうから書かないのだ。
 源氏物語は八十年にも及ぶ超長編で、何十人もの女が登場する。その「実事」をいちいち事細かく描いていたら、みな同じになってしまってあぢけないことおびただしい。そもそも変わり栄えしないことばかり書いていたのでは、紫式部の沽券にかかわる。

 それに比べて、閨での語らいや後朝(きぬぎぬ)の文のなんと精緻で丁寧なことか。それは千変万化の相を見せるからである。語らいや後朝の文によって、相手の教養や趣味やセンスや人間性まで分かってしまう。「実事」ではせいぜい「優しい扱いをしてくれる」とか「荒ら荒らしい扱いである」とか、その程度の人間性が分かるくらいだ。
 変化のないものには魅力はない。千変万化する相を求めて、古今の人々や新古今の人々は精力を傾注し、苦吟した。
まして、紫式部は,変化してやまない人間の相を鋭く追い求めた作家であるから、変化のない「実事」に拘泥している暇はなかった。これが山路を歩いていてたどり着いた結論である。


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