源氏物語

源氏物語たより323

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    「受戒ばかり」とはどういう意味か 源氏物語たより323

 光源氏は、紫上の再三にわたる出家の願いを拒み続けてきた。ところが、彼女が死の瀬戸際からよみがえった時、再び
  『「御髪おろしてむ」とせちに思したれば、「忌むことの力にもや」とて、御いただき、しるしばかりはさみて、五戒ばかり受けさせたてまつり給ふ』
のである。
 「御髪おろしてむ」とは、出家したいということである。それに対して、今回ばかりはさすがに源氏も「忌むことの力にもや」と思って、形だけ頭頂の髪の毛を鋏で切ったのである。普通の場合は、剃髪は肩か腰のところで鋏を入れる。いわゆる「尼そぎ」である。彼女の場合は頭頂の髪を「しるしばかり」切ったのである。三十九歳とはいえ紫上はまだまだ若々しい。その髪をバッサリ切ることなど、源氏にすれば想像すらできないことなのだ。
 したがって、紫上の出家は形式的なものである。もちろん家を出て寺に入り、終日仏道の修行をするわけではない。いわゆる在家のままの出家であるが、彼女の場合はさらにそれよりも簡略なもののようである。
 
 また「受戒」についても「受戒ばかりの」といっている。「ほんの受戒に過ぎないが」ということであろう。それでも受戒することによる功徳で、彼女の命が長らえることがあるかもしれないと源氏は考えたのだ。「忌むこと」とは、「受戒」と同義である。

 それでは、「受戒」とは一体どういうものなのだろうか。
  「戒」とは、「戒律」の「戒」のことで、仏教で定められた出家者の守るべき「いましめ」である。戒には「防非止悪(非を防ぎ悪を止める)」の力があるという。
 「戒」にはさまざまなものがあり、僧には二百五十の、尼僧には五百の戒があるそうだ。そのうち在家の出家者の戒には五つあり、これを「五戒」という。
 『不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒』
がそれである。「邪淫」とは、妻または夫以外のものと淫事をおこなうこと、「妄語」とは嘘をつくことである。
 紫上の場合は、「五戒ばかりの」ものということで、家にいて五戒を守ってさえいればいいという程度のものなのであろう。源氏にとっては紫上が「家を出て」仏道の世界に入ることなど、考えられないことなのだ。
 それほどに紫上に対する源氏の愛執は熾烈である。

 それに、この五戒を見ると、いずれも紫上にはおよそ縁のないものばかりであることに思い至る。彼女が殺生をするだろうか、盗みをするだろうか、源氏以外の男と淫らなことをするだろうか、また彼女が酒を飲むとも思われない。唯一考えられるのが「妄語」であるが、でもあれだけ源氏が勝手な浮気沙汰を起こしたのでは、嘘の一つも言いたくなる嫉妬もしたくなるというものである。とにかく彼女は
 『懐かしう(情が深い)をかしき(美しい)御有様にて、まめやかなる心ばへ(生活面での女房たちへの配慮も)思ひやり深く、あはれ(優しい)』
なのだから、彼女は戒を受けなくとも戒に生きているようなものである。

 このように考えてくると、彼女のこの時の出家は、単なる慰めであり源氏のごまかしにすぎない。それでも御授戒の師(紫上に戒を授ける僧)は
 『忌むことの優れたるよし』
を仏に申し述べるのである。受戒ばかりでも十分功徳があるというのだ。
 しかしこれは、紫上が日頃願っていたものとは、およそかけ離れたもので、彼女が満足したとは到底思えられない。それに源氏自身も、これは出家でもなんでもないと自覚していたことが後に分かる。
 というのは、紫上が本当に死んでしまった時のこと、源氏はおろおろしながら、夕霧に紫上の出家について諮っているのだ。「既に紫上は出家しているのではないの?」と思われるのに、夕霧にこう命じている。
 
 「長い間、彼女が出家の願いを持ちながら、それを許さなかったのだが、このような時に(もう蘇ることもないであろう死に当たって)、その望みをかなえてやりたいと思う。授戒の師に
  『頭おろすべきよしものしたまへ』」

 なんという理にそぐわない非人道的な暴挙であろうか。死んだ者を出家させるという。かつて死者を出家させるなどということがあったのだろうか。死んでしまっては何の役にも立ちはしない。命じられた夕霧も、例の物の怪の仕業かも知れないからと、四十九日の忌(いみ)にお仕えしようと控えていた
  『(二条院をまだ)まかでぬ僧、その人かの人など召して、(授戒の)さるべきことども、この君(夕霧)ぞ行ひ給ふ』

のである。紫上の出家を許さなかったことに対する源氏の悔恨を斟酌(しんしゃく)して、夕霧は、全く無益な措置とは承知しながらも、源氏の意に従ったのだ。これでは紫上の哀しみは死しても止まることがない。

 ところで、在俗のまま出家するとはどういうことであろうか。もちろん先の五戒を守ることに他ならないのだが、できるかぎり僧と同じような生活を、我が家にいながらするということである。つまり、仏に帰依し、清浄心を保って朝夕の読経に怠ることなく励むということである。清浄心を保つには、人間としての欲である物欲や色欲や権威欲や名誉欲などから離れなければならない。また喜怒哀楽をあらわにせず、清涼な心情を保って生活することであり、そのためにはこの世のほだし(親や子などの係累)も可能な限り捨てなければならない。
 そして、僧の世界により近づくために、六波羅蜜を修する者もあろう。六波羅蜜とは布施(施し)、持戒(戒律を守る)、忍辱(にんにく 忍耐)、精進(努力)、禅定(精神統一)、智慧(悟りの知恵)である。
 しかし、源氏物語に登場する出家者は、概ね浅い感情から出ているような気がしてならない。この世の憂さや病や罪から逃れ、あの世での安穏を願うというような動機からみな出家しているのだ。
 空蝉や藤壺宮や浮舟は、男からの執拗な求愛から逃れようとしてのものだし、藤壺宮や朧月夜や女三宮は、不義密通への恐れから、朱雀院は、病と自らの気弱さから、宇治八の宮は、不如意な現実生活から、などである。したがって彼らの仏道に対する構えも、八の宮を除いては、自ずから柔弱なものになる。もちろん朝夕の読経くらいはみなしていることであろうが、清浄心を保て勤行一筋の生活をしていたか疑問であるし、まして仏教の深奥に迫ろうなどということとは無縁であった。朱雀院などは山に籠ったというのに、娘・女三宮のことが頭から離れず、山からのこのこ下りてくる。その女三宮などは、実にのどかな出家生活を送っている。

 紫上がもし出家していたら、おそらくこれらの人よりも真剣に仏道に励んだことであろう。彼女の出家の原点には、源氏という男の愛執から逃れたいという気持ちがあるように思われ、その点では他の女性方と変わりはないのだが、彼女ほど女の哀しみの限りを舐め尽くした者はいない。極限状態を生きたと言っていい。だから彼女の出家の願いは真剣であったし、そういう者の仏道修行は一意専心、一心不乱になる。
 それに彼女の人柄からすれば、菩薩が求めようとした六波羅蜜を修しようと必死になったことであろう。なにしろ「懐かしう、思いやり深く、あはれ」な女性なのである。


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