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源氏物語

源氏物語たより329

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    薫誕生は因果応報か  源氏物語たより329
 
 安産のための加持・祈祷やらに騒ぎ立ち、女三宮は、夜一夜悩み明かして、日がさし昇るころ、子供を無事出産した。
光源氏は、生まれた子が間違いなく柏木のものであると分かっているので、さぞ柏木に似ていることであろうことを恐れる。もちろんこの件について知る者は、当事者以外には二人の仲を取り持った小侍従くらいではあるが、人に勘繰られることが恐ろしい。女の子であれば深窓に育つから人前に出ることは少ない、しかし女の子にしてもいろいろと悩みは尽きまい、とこう彼は思い悩むのだが、生まれたのは男の子であった。(この子が宇治十帖の主人公・薫である)
 源氏の頭を、さらに恐ろしいことが過(よぎ)る。
 『我が世とともに、「おそろし」と思ひしことの報いなめり』
 「生きている間中、罪の意識に悩まされるであろう恐ろしいこと」とは、藤壺宮との不倫のことである。彼は、その報いが薫の出生という形で現れたのだろうと悩むのである。そして一方ではこうも思う。
 『後の世の罪は、少し軽むらんや』
 自分が犯した罪が、このような形で現世で報いとなって現われたので、そのために、後世の罪状は少しは軽くなるであろうというもので、彼一流の自己本位な考え方である。
 果たして彼が考えるように、後世の罪は軽くなるであろうか。

 というのは、女三宮と柏木の不倫が、源氏が犯した罪の「因果応報」に当たるとは到底考えられないからである。このことを考えずに、しばしば「源氏物語は、因果応報の物語である」と説かれるのだが、それは全く当たらない。二つの不倫は、根本的に質が異なるのである。改めてそのことを追求してみよう。
 一つは、それぞれの当事者の愛情の問題である。
 源氏と藤壺宮との関係は、源氏が極めて積極的であったことはあるが、藤壺宮も源氏に対してあやにくなる恋情を抱いていたことも事実である。二度目の逢瀬の、何と濃密なことか。二人の歌のやり取りの、何と情愛深いものであるか。それは、恋の絶唱と言えるほどである。
 ところが、女三宮の場合は、柏木に対して微塵の愛情も持っていないのである。祭りの禊の前夜、突然、雷に打たれたように柏木に犯されてしまっただけだ。その後二人は何度か逢っているようではあるが、女三宮の柏木に対する情など探し出しようがない。
 また、もう一つ考えなければならないことは、それぞれの妻に対する夫の愛情の程度である。桐壺帝は、藤壺宮をこの上なく寵愛していた。だから、藤壺宮に生まれた子(冷泉帝)を、人の子とは毫毛も疑っていない。
 一方、源氏は、女三宮を侮りこそすれ、愛情のかけらも持っていなかった。宮の父・朱雀帝への思惑から、形式的・義務的に通っているだけである。特に事件の起きたころは、紫上の病気を口実に、久しく宮のところには通っていない。いうなれば起こるべくして起こった不倫である。愛情を持たない妻の不倫は、自尊心を抜きにすれば、源氏に少しの打撃も与えていないということになる。

 二つ目の問題は、それぞれの不倫の相手の問題である。
 源氏の不倫相手・藤壺宮は、父の妻である。つまり義理の母ということである。これは許されることではない。その罪は生涯にわたるどころか、後世でも救われるものではない。(もっとも世の中には、義理の母との不倫というのは例がないことでななかろう。ドラマなどにも出て来そうである)。が、やはり世間でもあの世の入り口でも、許してはくれない行為であることに間違いはない。「絶対悪」と言っていいかもしれない。
 ところが、柏木の相手・女三宮の夫は、柏木とは縁もゆかりもない一人の男である。いわば、ごく当たり前の男と女の関係であって、世の中には捨てるほど起こっている。女性週刊誌はこのことで命を繋いでいるようなものだ。

 以上のことからすれば、この二つの不倫は、同じ土俵で語られるものではなく、全く次元が違うものである。もし二つ目の問題で、女三宮の相手が、柏木でなく、源氏の子である夕霧であったら、問題は別になってくる。まして、女三宮でなく、紫上と夕霧であったなら、これは間違いのない「因果応報」と言っていいであろう。
 したがって、あの世でその報いを受けるとしたら、源氏は終身刑になるだろうが、柏木は、執行猶予つきの三年の刑がいいところであろう。
 それに、源氏の犯しは、既に三十年も以前のことで、とうに時効である。今更「応報」もない。この間、彼は何一つ報いなど受けていないのである。藤壺宮とのことは、はるかかなたの夢の世界であり、そんなことは関係なしに、彼はひたすら栄耀・栄華の道を突き進み、繁栄を極めてきた。女三宮の事件は、自尊心を傷つけられた以外に、何の痛痒(つうよう)も感じないはずである。あえて言えば、この事件が起こってしまった「因」は、彼の女三宮に対する夜枯れであり、またそれは彼の宮に対する侮りと油断からである。その「報」が、女三宮の不倫という形で現れたと言える。
 むしろ大きな「報い」を受けたのは、女三宮と柏木である。その「因」は、「恋」というもののわりなさであり、また女三宮の幼さと用意のなさである。

 ところで、仏教に「縁起」という言葉がある。お釈迦様が菩提樹の下で悟りを開いた時の重大な「法」である。お経の文句で言えば
 「これあるに縁(よ)りてこれあり、これ生ずるによりてこれ生ず」
である。存在するものはすべて、しかるべき条件があって生起したものということである。父母があって子があり、生があって老死がある。一切の存在は、すべてまた原因と結果の関係において考えられると言いかえることもできよう。(筑摩書房 現代の仏教12 増谷文雄)これが後に「因果」という言葉となり盛んに使われるようになる。
  人は、多くは善なる「因」のもとに生きているであろうから、悪なる「果」がもたらされることは少ないはずだ。
 しかし、源氏の場合はどうであろうか。彼が関係した女性はほとんどが出家している。空蝉、藤壺、六条御息所、朝顔、朧月夜、女三宮、紫上・・それは源氏が撒いた「因」による結果と言わざるを得ない。あれほど女性を引き付ける魅力を持ち、思いやりも深いはずの源氏にもかかわらず、女性たちは次々と源氏を離れ、出家していく。何か源氏自身に「因」となるものがあったと考えざるを得ない。
 女三宮と柏木の件については、 源氏は、はるか以前の藤壺宮とのことに「因」を求める必要はない。もっともっと直近の「因」があるのだ。それは、女三宮をあはめ、ないがしろにしたことである。その「果」がどういう形で現れるかは、彼にも予想できたのではないか。奇しくも、この事件を知った時、源氏は言っている。
 「帝の妃といえども、帝寵がなくさびしい時には、情愛の深い男が言い寄ってきたりすると、その男になびいていき、やがて互いに心通わすこともある」
と。にもかかわらず、女三宮と柏木を許すことができなかった。なんと罪深いことであろう。源氏の「後生恐るべし」である。が、それも、彼が、源氏物語の主人公であるという「宿運」を背負っている以上、仕方のない罪であるし、誰にも批判などできるものではないのだ。


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