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郷愁

漢字あれこれ

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     漢字 あれこれ

 漢字検定協会という組織がある。いつか不正事件を起こした協会だ。なぜあれほど巨額な利益を生み出すことができたのだろうか不思議に思ったものだが、それは漢字に対する日本人の誤った認識があるからではなかろうか。
漢字に対する日本人の認識には、過ちがある。漢字をあまりにも絶対視しすぎるということだ。それはもう神聖視していると言ってもいいほどだ。
 私は、漢字検定の一級とか二級とかに、さしたる価値はない、しゃかりきになって資格を取るほどの意味はない、と常に思っているのだが、日本人の漢字絶対視が、相変わらず漢字検定協会を潤している。
 なぜなら、高度の漢字の能力などは、我々が日常生活を送るのにほとんど意味を持っていないからだ。もちろん常識的な漢字の読み書きはできなければならないのは当然であるが、必要以上に難しい漢字についての能力は全く不要である。
 これに比べて、英検の一級や二級などは大変価値のあることだ。国際社会の現代を生きる我々にとって、英語の能力は大切な要素であるし、使い道もあるからだ。したがって、英検の資格を持っている者が、就職などの際に優遇されるのは当然である。また、《大江戸検定》とか《横浜検定》などが最近流行っているが、これにも、それなりの意味がある。
 ところが、漢字検定の資格を持っていても、一般の人にとっては、それを使う場などまずない。それは個人的な趣味の問題に過ぎない。
 《漢字王決定!》などというタイトルの番組をよくやっていて、人気があるようだ。やくみつるなどが登場してきて、恐ろしいほどの漢字力を披瀝する。そして、それはそれなりに視聴者に感動を与える。しかし、あれは芸能の世界にいる者だから漢字が生かせるのであって、一般の人がいくら漢字を知っていても、それを生かす場などないし使い道もない。
 いつか10チャンネルで、凄いタイトルの漢字番組をやっていたので見ていた。
 『大胆マップ 漢字検定間違いやすい漢字60問 ランキング超難読Qであなたの漢字力アップの○秘脳トレ』 
 題を見ているだけでぞくぞくするようなので、私も、面白がってこの『○秘脳トレ』に挑戦してみた。後半の超難読漢字ベスト10では、いくつか読めないものがあったが、他の問題は全て読めた「これならもう準一級は固い、一級の問題も90%は読めたのだから、ひょっとすると一級も合格するかも知れない」と得意になったものである。
 読むことができなったものの中には、当て読みみたいなものが多くあって、こんなものが検定に出るのかと思って、ますます漢検に不審と疑いを深くした。たとえば、
  《鹿尾菜》
 「鹿の尾のような野菜?」一体これは何と読むのだろうか、想像もつかない。考えあぐねていると「ヒジキ」と読むのだという。そしてなんとこの字が広辞苑に載っていたではないか。《羊栖菜》とも書くようだが、「ヒジキ」は「ヒジキ」で十分なのに。
  《尾長驢》
などは、全く想像もつかない漢字であった。やくみつるも、もう一人の東大卒という出場者も、私が想像したと同じように「ロバ」「ラクダ」と答えたが、いずれも不正解。正解は「カンガルー」であった。さすがにこれは広辞苑には載っていなかったが、この字を読めることに意味があるのだろうか。
 それにしても、この番組を見ていて、我ながら自分の漢字能力に感心したものがある。
 「横綱は、《遉に》強い」
という漢字の読みである。出場者は全員不正解であったが、私は「さすがに」と答えて、これが正解であった。私もこんな漢字があることさえ知らなかったのだが、文脈で適当に見当をつけたら当たっていた。我ながら「さすがだ!」。もう一つが
 「文身」
 これも出場者全員が不正解であった。この結果には驚いた。時代小説などにしばしば出てくる言葉だから、当然、ほとんどの人が正解するだろうと思っていたのに、やくみつるさえ不正解だったとはどういうことだろうか。通常は《刺青》が使われるからであろうか。私はもちろん「いれずみ」と読んだ。この場合は適当に見当をつけたのではない。この時は、妻も私の漢字能力に感心していた。妻から、感心されることなどめったにないので、「この番組、なかなかいい番組だな」と思った。
 その他に、「肉刺」「痂」などもあったが、これなどはわざわざ漢字にすることもなく「いぼ」「かさぶた」でいい。

 ところで、我々の日常生活の中で、漢字の能力が生かされることなどあるのだろうか考えてみよう。たとえば、職場で、漢字がよく読めたり書けたりすることが、役にたったなどということがあるだろうか。また、漢字の読み書きができなかったがために重大な事態を引き起こしたなどということがあっただろうか。せいぜい上司から漢字の読みを聞かれて、すぐに答えることができた時に、すこしばかり面目が立ったなどという程度ではなかろうか。
 難読語が読めるがゆえに偉いともいえないし、漢字の読み書きができないからといって、それほど卑下することもない。分からなければ必要に応じて辞書を引いたり、人に聞いたりすればすむ。要するに高度な漢字能力などは、趣味の問題であり遊びの世界なのだ。だから、それを誇示したり、相手を非難したりするなどは愚かしいことなのだ。地名や人名でも難しい読みが多いが、これらを読めなくても大目に見るべきである。私の兄などは高校時代「大仏次郎」を「だいぶつじろう」と言っていた。

 ところで、漢字の読みと書きとは、まったく別次元の問題であるということについて考えてみよう。
 まず、両者はそのスピードにおいて違うのである。読む時にはなるべく速い方がいいが、書く時にはゆっくりでいいということである。読むのはいくら速くてもよく、速すぎるということはない。また、速く文を読める者は、他の能力も優れているものだ。
 中学校の国語の授業などでも、早く読める子ほど、国語能力に限らず、他の教科の学力も優れていたし、気の回りも速かった。そういう子は小さい時から多くの本に触れてきたのだろう。
 一般の社会でも同じことがいえる。読む場合はできるだけ速い方がいい。上司から渡された文章などは、速く読んでその結果を早く上司に報告した方が喜ばれる。上司は早い対応を評価するはずだ。難読語などが出てきたら、それにいつまでもひっかかっていないで、文脈上で適当に意味を取ればいい。
 一方、書きはゆっくりするものだ。もちろん速く書けるに越したことはないのだが、速く書くことを要求されることは、プロでもない限りそんなにはないものだ。そして、文章を書く場合には、通常思考しながら書くから、ここでは漢字の能力はさして問題にならない。なぜなら書けない漢字があれば辞書を引けばいいからだ。私は日記を書く時は、《電子広辞苑》を手放さない。《電子広辞苑》はどんな漢字でも言葉でも実によく知っている。私は《電子広辞苑》をいつも「神様、神様!」と言っている。だから、漢字のことで時間を費やす必要はなく、神様におすがりしていればいい。
 大事なのは、文章の内容である。そこにこそ多くの時間を割くべきなのである。肝心なことは、書いたり話したりする内容をたくさん持っているということである。いくら漢字が書けても、文章そのものを書けないのでは意味がない。話ができないのでは失格である。
 漢字に時間を費やすよりも、できるだけ多くの経験をしできるだけ多くの文を読むことだ。それによって語彙を増やし、それを駆使できるようにすることである。

 もう一つの問題は、漢字を書くことと読むことは、その難易度において大変な差があるということである。これも認識しておかなければならないことだ。
 書くことは本当に難しい。簡単な漢字でも書けないことがよくあるものだ.言われてみれば「なんだ、そんな字か・・」という言葉でも書けない。それは我々が書くことに慣れていないということに一番の原因がある。学校などでも、書いているようで意外に書いてはいないものだ。ただ書き写しているのがほとんどなのだ。
 それに言葉のイメージがなかなか取れず、漢字と言葉が結びつかないことに起因することも多い。たとえば、《青》という漢字を考えてみよう。《青》という漢字は誰でも書ける。ところが、「至るところ《せいざん》あり」となると、案外書けないものだ。「《せいざん》とは何だろう?」と考えてしまう。
 漢字一文字一文字は書くことができても、漢字は無限に他の漢字と結びついていろいろな言葉になっていくから、漢字を書くことは極めて難しいのである。
 一方、読みは、《青》を「せい」あるいは「あお」と読めれば、《青》のつく言葉は、もう一方の漢字が読めさえすれば、意味に関係なく、読むことができる。「青果」「青嵐」「青二才」・・
 にもかかわらず、漢字を読むことと書くこととを、同じレベルで「できなければいけない」と考えてしまうのが一般的である。私立高校の入試問題などにこの傾向が顕著に出る。使用頻度の極めて低い言葉を平気で書かせたりする。「中学生がそんな言葉を知っているわけがないだろう」と思うことがしばしばあった。
 こういう私立高校の入試などに対応しなければならないから、中学校では、漢字の書きの指導に大変な精力を使わざるを得なくなる。読めても書けないのは、人間の習性であることを肝に銘じて欲しいしものだ。
 アメリカ大統領オバマ氏が好きだ。彼のスピーチのなんと生き生きとしていることか。彼が原稿を見てスピーチすることなどほとんどない。それに比べて、日本の政治家たちのなんとお粗末なことか。わずか数分のしゃべりでさえ、原稿から目を離さない。その姿を見ていると哀しくなる。
 日本の国語教育が、漢字指導に引きずられて、子供たちに膨大な負担を課し、「肝心なこと」を疎かにしてきたつけである。
 また、このような国語教育が、日本人全体に《漢字神聖視》の意識を内在させ、大勢の人が漢字検定を受けるという珍現象を引き起こすのだ。
 大胆な提言をすれば、国語のテストから、漢字の読み書きテストを外すべきである。特に書きのテストは止めるべきで、漢字指導に充てる時間を、多くの文章を読ませたり、文章を書かせたり、発表させたり、あるいは豊かな経験をさせたりする機会などにこそ充てるべきなのだ。


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