源氏物語

源氏物語たより333

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   怖い雲居雁 ~源氏物語絵巻~ 源氏物語たより333

 『たより330』では、『柏木』の巻で、光源氏が、柏木と女三宮との間の不義の子・薫を抱く国宝・源氏物語絵巻(隆能源氏絵)を取り上げた。今回は『夕霧』の巻の「怖い雲居雁」の絵を見ていこうと思う。
 夕霧と雲居雁は、相思相愛の筒井筒の末に結婚した。ところが年月というものは愛を変形させていくもので、夕霧は自他ともに認める「まめ人間」であるにもかかわらず、別の女性に熱を上げるようになってしまった。今までは雲居雁以外の女性には振り向きもせず、あまたの子供を設けて平穏無事な生活を営んでいたというのに。
 そんなまめ人間が、ある時、豹変した。人生は分からないものだし、またそれだからこそ面白いのかもしれない。夕霧は、亡き柏木の未亡人・落葉宮を見舞ううちに、すっかり宮のとりことなり、執拗に宮への求愛を繰り返すようになる。
そしてある夜、強引に宮に迫り、一夜を明かすこととなった。だがまめ人間が災いしたのだろう「実事」には至らないまま翌朝別れてしまう。
 翌日、二人が一夜を過ごしたことを知った宮の母・御息所は、大層心を痛め、夕霧に対する非難と覚悟のほどを問う手紙を出す。手紙にはこういう歌が添えられていた。
  『女郎花しをるる野辺のいづことて 一夜ばかりの宿を借りけん』
  「女郎花」は落葉宮のこと。「宮がすっかりしょげかえっているというのに、あなたはどうして浮気男のように、宮と一夜宿を共にしただけで、今夜はもうやって来ようとしないのですか」という意味である。御息所は、二人の間に完全に「実事」があったものと思い込んでしまったのだ。結婚したら、男はとにもかくにも三日間、女の元に通わなければならないというのに、それをしない夕霧をなじったのである。
 一方、夕霧とすれば、宮と正式に契ったわけでもないのに、今夜また通って行けば、いかにも「ことあり顔」に取られてしまうのを恐れて、行きたいのを我慢して妻の家である三条殿で過ごしていた。
 宵を過ぎるほどにこの手紙が届いた。
 御息所はその当時ひどく体調を崩していたので、手紙の筆跡は「鳥の足跡」のように乱れていた。
  『鳥の跡のやうなれば、とみにも見解き給はで、大殿油近く取り寄せ』
て手紙を判読しようとしたのだが、なかなか読み取れない。そうこうしているうちに、隔たったところにいると思った雲居雁が
  『いと疾く見つけ給うて、這い寄りて御後ろから取り給う』
てしまったのである。最近の夕霧の行動に不審を抱いていた雲居雁は、落葉宮からの手紙と思い取り上げてしまったのだ。
 『隆能源氏絵』は、雲居の雁が手紙を取り上げようとするその瞬間を描いたものである。
 「とみにも読み解けない」でいたことが夕霧の命取りになってしまった。夕霧がどう弁解しようが手紙を返してはくれず、どこやらに隠してしまった。翌日も手紙を探し回るが容易に見つからず、日暮れ時になってやっと見つけ出したが、もう後の祭りである。

 それでは、御息所の手紙をもう一度見てみよう。それは、夕霧が一夜だけの弄びで宮と契ったことを恨んで、「どうして二日目の今夜はやって来ないのか」という非難である。しかしそれは通ってくることを誘っている内容でもあったのだ。もしこの手紙が素早く読み取れていたら、夕霧は万障繰り合わせて宮のところに飛んで行ったであろう。しかし御息所の手紙の内容が分からない以上、手の施しようがない。

 改めて「隆能源氏絵」を見ると、画面中央には鬼気迫るような異様な姿で右手をぐっと伸ばして立っている雲居雁が描かれている。その前には鳥の足跡のような文字を必死に判読しようとしている夕霧がいる。もちろん夕霧が読んでいる手紙を、雲居雁が奪い取ろうとして、手を伸ばしているところである。彼女はもちろん「引目鉤鼻」であるが、この絵の場合は、珍しく感情がにじみ出ている。嫉妬を燃え上がらせている姿だ。髪がざんばらになっているところも、憎しみの感情を如実に表わしているし、伸ばした右手が異様に大きいのが「奪わずにおくものか」という執念を見事に表現している。
 前に座っている夕霧は判読に夢中で、忍び寄る雲居雁にまったく気づいていない。二人の切迫した雰囲気がじりじりと伝わってくる。

 この絵で、もう一つ気になるのが、夕霧の前に置かれている硯箱である。こんなに大きな硯箱があるのだろうか。あまりに大きすぎて画面全体のバランスを崩しかねない。硯箱の中には、硯はもちろん刀子や筆三本などが、鮮やかに描き込まれている。このことを『日本の古典 源氏物語』(集英社)はこう述べている。
 「夕霧が、返書の用意をしながらそれを果てせず、御息所の死を早める結果になるという、物語のこれからの展開を暗示するものといえよう」
 御息所は、それでなくても重篤な状態にいたのだが、夕霧がたった一夜泊まっただけで、二日目の夜はもう来ようともしない不実を憤ったために病をさらに悪化させてしまった。この後、御息所は死んで行くのだが、夕霧の不実が彼女を憤死させたとも言える。
 もちろんこのことは御息所の誤解に発しているのだが、彼女にとってみれば、娘・落葉宮の尊厳(帝の子供)をいたく傷つけられたことになるのだ。その死は、憤懣やる方なく悶死していったと言うしかない。夕霧が返書を書くことができなかったことを象徴するものとして、異様に大きな硯が置かれたということである。「隆能」の意図は確かにそんなところにあったのかもしれない。
 もう一つ、物語上には記載されているわけではないが、廂の間に二人の女房が向かい合って何やら深刻な顔をしている姿が描かれている。恐らく夕霧夫婦の異常に気付いて、果たしてこの結果はどうなることやらとかたずをのんで、ささやき合っているのであろう。

 この絵は、東京の五島美術館にあり、以前、特別展示の時に見たことがある。その頃は源氏物語に興味を持っていたわけではなかったので、丁寧に見たわけではないが、絵の雰囲気は今でもはっきり覚えている。その時のパンフが今でも手元にあり、この絵が次のように評されていた。
 「もっとも劇的な緊張を孕んだ場面である。しかし夫婦の争いを直接乱れた姿として描くのではなく、まさに波乱の起こる寸前の静態を捉えた」
 このことで、二人の間には計り知れない亀裂が生じてしまう。夕霧は結局宮と結婚してしまうのだが、それを機に、失意の雲居雁は家を出て行く。こうしてまめ人間・夕霧の家庭はもろくも崩れていった。


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