源氏物語

源氏物語たより344

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   慟哭 紫上の最期  源氏物語たより344

 『御法』の巻に入った途端に、まるで習い性になったように、毎回、胸をジーンと締め付けられるのは、一体どうしたことだろうか。この感覚は私だけのものではないということを、先日ある本を読んでいて知ることができた。源氏物語の読者は、多くこの巻で胸を締めつけられるということなのだろう。
 それはなぜなのだろうか。もちろん紫式部の筆の力に負うところが多いのだろうし、また物語のヒロインが最期を迎えるのだから当然の感情だということもあるかもしれない。しかしそんなふうに一般化してしまいたくないものがここにはある。

 紫上の像は、必ずしも鮮明ではない。彼女が物語に登場しない巻も多いし、それに彼女が主体的に行動したり、思考したりする場面もそれほど多くはない。
 理想的な女性であることは確かなようなのだが、それではどのように理想的なのかとなると判然としない。みな光源氏の目を通して「欠点のない女性」「素晴らしい女性」と語られるだけで、具体的に「どこがどのようにいいのか」といえば、答えるのに戸惑ってしまう。源氏物語に登場する女性の中で「どの女性が好き?」と問われた時、「紫上」と答える人はそれほど多くはなかろう。彼女には、朧月夜や六条御息所のような個性はない。だから、「これ」とさして好きなタイプとしては上げられないのだ。
 にもかかわらず、この巻に来ると胸を締めつけられる。

 それは、やはり長年苦楽(楽はあまりないが)を共にしてきた読者の思い入れに他ならない。
 十歳の時の北山の彼女の姿は鮮明である。何の屈託もなく天真爛漫に雀を追い回していた。そして源氏に見出され、継子の憂き目を見ることもなく最高の幸せを掴むことができた。
 ところが、それ以降は、彼女の明るい姿を見ることがなくなってしまった。彼女が心底笑った場面を思い出すことも困難である。幸せそうな姿がどこかにあっただろうか。
 むしろ我々の心に刻まれているのは、ながめがちにしている姿である。
 我々の記憶にあるのは、源氏の浮気心に泣かされる場面ばかりである。しかもそんな時には必ず源氏から「あなたは嫉妬心が強くていけない」とたしなめられるのだ。嫉妬するように仕向けていたのは源氏の方なのに。明石の君や朝顔に嫉妬しない女などいないはずだ。また女三宮にもいたく自尊心を傷つけられた。女主として六条院を盛り立ててきたという自信も、女三宮に粉々に砕かれた。
 そして、彼女を奈落の底に陥れたのは、朧月夜である。いい歳(四十歳)をして、源氏は朧月夜との恋に溺れた。源氏が、朧月夜に逢った話をした時、紫上は、珍しく皮肉を言った。
 『今めかしくなり返る御有様かな。昔を今に改め加へ給ふほど、中空なる身のため、苦しくなん』
やや難しいが、
 「まあ随分若々しくおなりになったものですわ。今(女三宮)の恋に、さらに昔(朧月夜)の恋を加えるというのですものね」
というような意味になろう。「中空」とは、中途半端でふらふら彷徨っている状態を言う。自分の身の不安定さを嘆いたものである。女三宮に心神を痛めつけられていたにもかかわらず、焼け棒杭のあらずもがなの恋にさらに泣かされる紫上。さすがに
 『涙ぐみ給へる』
のである。源氏の行為は、傷痕に塩を塗るようなもので、憔悴に追い打ちをかける仕打ちである。これでは自分のいるべき場所はない。彼女が出家を考えるようになったのは、このあたりからではなかろかと思う。
 十歳の時からずっと見てきた紫上の晩年は、かくも惨めなものになってしまった。長年付き合ってきた我々とすれば、彼女に感情移入せざるを得ないのである。

 『御法』の冒頭は
 『紫の上、いたう患ひ給ひし御心地の後、いとあつしく(重く)なり給ひて、そこはかとなく悩み渡り給ふこと久しくなりぬ』
である。そしてすっかり「あえか」になってしまった。「あえか」とは、あるかないかの「はかなげ」な状態をいう。そんな彼女は自らの命を諦観している。
 『この世に飽かぬことなく、うしろめたきほだしだに交じらぬ御身なれば、あながちにかけとどめまほしき御命、とも思されぬ』
のである。実に寂しい心境である。
 「もうこの世はたくさん。別に気になる係累もないのだし、無理に生きていようとも思わないこの命よ」
と言うのだ。掛け値なしの本心の吐露であるから胸を打たれる。誰だって、またいくつになっても「もうこの世はたくさん」などと思うことはないはずだ。
 そう彼女を思わせるのがなんであるかは、予測がつく。源氏の存在である。「この世」の「世」は男女の中で使われることが多い。「もう源氏さまとのかかわりもたくさん」ということだ。あれほど紫上を愛しているはずの源氏さえ、今の紫上にとってはなんの「ほだし」にもならないというのだ。
 それでも、「あえか」な様子の自分を見ては、嘆き悲しんでいる源氏を見ると、
 『ものあはれに思さる』
のである。この「あはれ」はどういう意味であろうか。「気の毒だ」とか「可哀そうだ」とかいう心情にしかすぎないと思う。少なくとも「愛情」のニュアンスは一片もない。源氏ばかりが空回りし「好きだ」と言っているにすぎない。だったらどうして紫上の気持ちを理解して上げようとしないのだろう、なんとも歯がゆいばかりである。
 彼は「自分が寂しくなるから」という自己本位な理由だけで、紫上の出家を
 『さらに許し給は』
ないのだ。彼女の「あながちにかけとどめまほしき御命とも思されない」諦観は、源氏のこんな態度から生まれている。
「出家」は、紫上が最後に取り戻すことができる「主体」の手段なのに。あの北山での屈託のなかった「昔」を、死に近い「今」に加えるものと言えば、それこそ出家そのものなのだ。
 やはり彼女は最期まで「中空」の状態を余儀なくされなければならないのだろうか。このまま彼女の命が尽きるのを見ていることの辛さ、それが我々に涙を絞らせるのであろう。


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