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源氏物語

源氏物語たより346

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   末摘花に霊力?深読みの咎 その2 源氏物語たより346

 国文学者は、深読みをし過ぎて、物語の本質を殺めてしまっているのではないかということを前回述べた。学燈社の『国文学』(昭和62年11月発行)を読んでいたら、いたる所で深読みによる過ちに遭遇した。
 たとえば、林田孝和氏(当時国学院栃木短大教授)の文章をみてみよう。氏は、『醜女の物語』という題で、末摘花と花散里を取り上げ、
 「世にも稀な貴公子・光源氏の妻妾に、どうしてこうも醜女を登場させるのか」
という問題提起から文章を進めている。
 この二人が、いずれも醜女を代表する女性であることはあまねく知られていることである。特に末摘花はその典型として登場する。どのくらい醜いかは今さら述べるまでもないのだが、以下の内容とのかかわりがあるので、簡単に記述して置くことにする。
 彼女の醜さを象徴するのは「鼻」である。彼女の鼻は、異様に長く「象のように」と形容されているほどである。しかもその鼻の先端が垂れていて、その上、紅花(末摘花)のように真っ赤なのである。顔色は白を通り過ぎて真っ青。身体の痩せと言ったら、肩の骨が衣を透けて見えるほどである。
 花散里も、末摘花に比べられるほどの醜女(これはおもに、光源氏の息子・夕霧の目を通した感想)である。

 ここで林田氏の結論を先に言っておこう。
 「醜女には霊力が宿っているからである」
ということである。つまり、末摘花と花散里という二人の醜女は、霊力を持っていて、その霊力が光源氏を守護するという意味で登場しているのだ、という論理である。この理論の根拠になっているのが、古事記の「大国主命」である。以下彼の論理を追ってみよう。
 大国主命は五つの名を持っている。そのうちの一つが「葦原色許男命」である。「あしはらのしこおのみこと」と読む。この名の「しこお」が「醜男」に当たる。
 古事記では、この「シコ」を「醜い」という意味では使っていない。それどころか、彼の妻・須勢理姫は、大国主命のことを父親に「いと麗しき神」と紹介していて、「シコ」はむしろ「醜い」とは逆のニュアンスで使われている。
 大国主命は、葦原の中つ国から、須勢理姫の根の国(死者の国)にやって来た男で、「しこお」は、「異郷からやって来た男」くらいの意味で使われている。つまり「シコ」は「異郷の荒ぶる霊力を有するもの」の意がその本義で、畏怖・畏敬されるべき存在であった。そういう意味で使われる言葉である。

 このことを林田氏は、末摘花が「醜女」であることと結びつけて、
 「常人と異なる異郷の女の醜貌を受け継いでいるのが,〈ひな〉の国からきた醜女末摘花であった」
と言うのである。そして異郷からきた醜貌のものには霊力が宿るとし、だから末摘花にも霊力が宿るとしているのだ。ところが、この〈ひな〉の意味が分からない。末摘花は零落したとはいえ、決して「ひな」から来ているわけではない。生粋の京生まれであり京育ちである。ここで既に論理上の無理をきたしている。
 またもう一人の花散里は「どういう異郷からきた」のかということには全く触れないのだから、誤魔化しているとしか言えない。花散里は、れっきとした大臣の娘、元承香殿女御の妹である。にもかかわらず、
 「末摘花・花散里という醜女を二人も登場させたのは、醜(しこ)に異常な霊力を感じる原義が生きていたからではなかろうか」
と強引に自己の見解にこじつけてしまっている。真実を捻じ曲げた誤魔化しと言わざるを得ない。
 
 林田氏は、さらに続けて強引な論を展開していく。その論を見ていこう。

 花散里が、六条院の「北東の町」に住んだのは、それなりの意味を持っているからだ。「北東」は「丑寅」の方向、つまり「鬼門」に当たる、醜女の花散里は、不動明王などに通じる「降魔の女」の影が宿っている。そこで「北東の町」に住まわせることによって、魔を退散させる力を借りようとしたのだ。このような意味から花散里が「北東の町」に住むようになったのは、しごく当然の帰結である。

 まあ、よくここまであるまじき想像をたくましくしたものだ。花散里が「丑寅の町(夏の町)」に住んだのは、それしかなかったからに過ぎない。「辰巳の町(春の町)」には、当然のことながら紫上が住む。紫上と言えば春なのだから。「未申の町(秋の町)」は、もともと六条御息所の邸の在ったところで、御息所の娘の邸にするのは、これまた当然のことである。しかも御息所の娘は「秋好中宮」なのだから、「秋好」が「春の町」に住んだら矛盾もはなはだしくなってしまう。「戌亥の町(冬の町)」には、明石君が住むのが至当のことである。なぜなら明石君は、忍従の女であって、冬以外は考えられないからである。「冬の町」には松が多く植えられていた。彼女はひたすら「春」の到来を「待つ」のである。

 さて、問題なのは、二人の醜女が、どのような霊力をもっていて、どのように光源氏の守り、さらにどのようにして光源氏を助けたかいうことである。
 ところが、この一番大事な問題に対して林田氏は口をつぐんでしまったのである。わずかに花散里が、夕霧と玉鬘の後見をしたことを上げているに過ぎない。これは誠にお粗末な論理と言わざるを得ない。なぜなら母親のいない夕霧と玉鬘を、花散里が後見するのはごく自然な成り行きだからである。それに花散里はとにかく「まめ」な女性であったから、夕霧を後見するにはうってつけだったのだ。
 また、玉鬘を、紫上や秋好中宮に預けるわけにはいかないのは自明のことである。にもかかわらず、このこと一つをもって「光源氏を守った」事例として上げるのだから、その飛躍には驚くしその神経が理解できない。
 もっとも夕霧を紫上が預かったら、源氏物語は一層ドラマチックになって面白かったろう。夕霧と紫上の関係がのっぴきならないものになり、そこに「因果応報」の原理が鮮やかに浮かび上がってきたかもしれない。
 明石君になぜ預けなかったかについては、もう馬鹿馬鹿しいから述べない。
 でも一歩ゆずって、花散里は夕霧・玉鬘の世話をしたという面で、光源氏を助けたということにしておこう。
 ところが、それでは末摘花がどのように「光源氏を守護」したかについては全く触れないのだから、もう杜撰を通り越して詐術を使っているとしか言いようがない。
 そもそも末摘花は、光源氏に不快な思いばかりさせて、とても彼を「守る、助ける」などという能力の持ち主ではないのだ。それでも二条東院に長らく住むことができたのは、光源氏の「心ながし」の性格があったればこそなのである。光源氏が、彼女のセンスのなさを見て唾棄する場面があるが、できれば捨てたい気持ちでいたのだろう。しかし「降魔の相」を持つ女性(不動明王のような)であれば、とても唾棄などできないはずだし、まして捨てるなどは論外である。

 それでも、物語上では末摘花は重大な役割を果たしている。決して捨てたり消してしまったりするわけにはいかない重要人物なのである。だから、醜女であるにもかかわらず、「蓬生」「玉鬘」「初音」「行幸」「若菜上」の巻と生き続け登場し続けたのだ。私は、末摘花は源氏物語の脇役などでは決してないと確信している。そればかりか、彼女は、紫上に次ぐ主役の一人と位置づけている。それは「あはれ」と対極にいる人物として重要なのである。決して「霊力」を有していたり「降魔の質」を持っていたりするからではない。このことについては『源氏物語たよりNO264』で詳しく述べたところである。

 私の結論を言おう。末摘花は光源氏の守り神ではなく、源氏物語そのものの「守り神」だったのだ、と。
 それにしても、かくも杜撰で粗雑で詐術を弄しているとしか言いようのない文章を、国文学の世界には咎める人がいなかったのであろうか。


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