源氏物語

源氏物語たより358

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   紫上主催の法華八講  源氏物語たより358

 今わの際の願いだというのに、光源氏は紫上の出家を許そうとはしなかった。それを紫上は「自らの罪が浅くないがゆえ」と思いなすのである。彼女にどういう罪があるというのだろうか。
 出家もできないのでは、彼女に残された最後の手段は、写経しかない。写経は、塔を建てたり僧堂を建てたりするのに匹敵する功徳があるという。
 そこで、彼女は、以前から書かせていた法華経千部の写経を終わらせ、その供養のために法華八講を催すことにした。
 「法華八講」とは、法華経八巻を四日(あるいは五日)にわたって朝座、夕座に読誦する法会である。この法会の三日目には行道が行われる。法華経の題婆建多品(だいばだったぼん)にある経文をもとにして、かの行基が作ったという
 『法華経をわが得しことは 薪こり菜摘み水汲み仕えてぞ得し』
 (仏から法を得るためには、成すべきことを全て行い、熱心に仏に仕えなければならない、の意)
を歌いながら、衆僧が、本尊の周りを右回りに行道する行事である。これは平安時代に人気があった法会で、祝いの「賀」につけても,周忌の供養につけてもよく行われたそうである。
 この行道は私の檀那寺でも行われていて、多くの僧が、経を唱えながら、また散華しながら右回りに本尊の周りを巡るのである。ただ行基の歌を歌っているかどうかは分からないが、散華された花弁をよく拾ったものだ。恐らくあれと同じような作法をするのであろう。 

 法華八講の時には、読経だけでなく、楽人や舞人も召されて管弦や舞も行われる。准太上天皇・光源氏の妻・紫上主催の法華八講ともなれば、百官が集い、華やかにして荘厳な催しになる。時は三月十日、花は盛りで空はうららか。
 『仏のおはすなるところ』
に紛うほどであった。あたかも極楽浄土が現前したかのような有様には、これを目の当たりにした人々は、たとえ信心深くない人でさえ、罪が消え去るであろうが如くであった。当然「心深き」紫上の罪も消滅することであろう。

 ところが、これほど荘厳・華麗を極めた法華八講を催しても、彼女の心は慰められず、また何を見ても彼女の哀しみは癒えないのであった。その心細さが明石君に贈った次の歌に滲み出ている。
 『をしからぬこの身ながらも かぎりとて薪つきなんことの悲しさ』
 (死んでも惜しくはないこの身ではありますけれども、いよいよこれが最後と命が燃え尽きてしまうことを思いますと、やはり悲しさは留めようがありません)
 たまらないほどの哀しさをたたえた歌である。「薪つき」は、先の行基の歌を受けたものであるとともに、釈迦入滅の様子を受けたものである。釈迦の入滅の様は、
 『薪尽きて、火の滅するがごとくなりき』
であったと言う。釈迦は「滅度(悟りを得て生死の苦を超越すること)」していたので、死に当たって何の哀しみも苦しみもなかったのだが、紫上は、釈迦のようにはいかない。自分の寿命の定めは知悉していたものの、やはり悲しさは抑えようがない。
 この悲しさは、どこからくるものであろうか。彼女は源氏のおかげでこの世の幸せは尽くしたと言っているのだ。しかしそれはあの世での安穏とは全く関係のないことである。
 彼女の関心は、今あの世にある。だとすれば、彼女の悲しみの由来するところは、仏道修行ができなかったことに尽きることになる。仏道の世界に少しでも足を踏み入れていれば(出家していれば)、罪障消滅の行いができるというのに、またそれがあの世での安穏な生活の可能性をわずかにでも残してくれる要因になるというのに・・、という口惜しさがあの歌を詠わせたのだ。
 この口惜しい思いは、もう源氏に向けることはできない。しかし、また自分の中に籠めておくこともできない。そしてふと明石君を思い、歌を送ったのだろう。しかし、明石君も、紫上の深い悲しみを理解することなどできない。そこでごくありきたりの慰めの歌を返すのだ。さらに花散里にも歌を送っているのだが、その返歌もまた彼女を慰めるものにはならなかった。明石君も花散里も、日頃はそれほど親しい仲とは言えない。それでも詠いかけずにいられない煩悶と未練と後悔、そして絶対的な孤独感に彼女はさいなまれていたのだ。

 結局この秋、彼女は
 『(夜の)明けはつる程に消え果て給』
うのである。この時、消えゆく紫上の手を握っていたのは、養女・明石中宮であった。源氏ではない。


 


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