源氏物語

源氏物語たより360

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   恋はわりなし  源氏物語たより360

 源氏物語の『若紫』の巻を講義している時に、参加者の一人からこんな質問を受けた。
 「光源氏は、義理の母であるとともに父帝の寵姫でもある女性と契るような、絶対許されない不義をどうして犯してしまったのでしょうか」
 このことは源氏物語全体にかかわるもので、簡単に結論付けられる問題ではないのだが、あえて言えば
 「恋はわりなきものだから」
ということかもしれない。「わりなし」の「わり」は、「ことわり」の「理」で、「道理、条理、筋道」という意味である。恋にはその道理などないということである。全ての恋がそうであるというわけではないが、恋は時に条理を越えた情念のほとばしりとなる。恋は、道理に背くことがあり筋道から外れることもある。それが分かっていても、そうせざるを得ないのが、恋の厄介なところである。

 古今集の「恋の巻」の最初の歌が
 『ほととぎす鳴くや五月のあやめ草 あやめも知らぬ恋をするかな』
である。上三句は「あやめ」にかかる序詞で、この「あやめ」も「道理、条理」ということである。漢字では「文目」と書くが、「文(あや)」は、
 「ものの面に表れたさまざまの線や形の模様。特に斜めに交差した模様 (広辞苑」」である。菖蒲は、五月の頃に咲く花で、確かに花の基部には網目状の模様がある。その模様さえ分からなくなってしまうほどに混乱しきった恋情を詠ったものである。古今集にはそのような理性では理解できない理不尽な歌が並んでいる。もう一つだけ例を上げておこう。
 『恋しきに命を代ふるものならば 死にはやすくぞあるべかりける』
 「あの人を恋するこの苦しさと、自分の命とを代えることができるものならば、死ぬことなんていとも簡単なことなのだけれども・・」という意味で、恋する苦しさは、命とさえ交換できるほどのものだという意である。そんなに苦しい恋なら止めてしまえばいいのにと思うのは、傍観者の無責任である。なにしろ恋は理屈を超えた不条理なものなのだから。

 源氏物語に出てくる恋の多くは、「わりなきもの」ばかりなのである。桐壺帝と更衣の恋。源氏と空蝉、夕顔、朧月夜、秋好中宮、玉鬘との恋。柏木と女三宮との恋。そして匂宮と浮舟。いずれも不条理は恋ばかりである。
 中でも藤壺宮への恋は、通常の神経では到底理解できないもので、「なぜそれほど畏れ多くも道義を逸した恋をするのか」と思うのだが、当人は、恋の地獄から一歩も出られない状況に陥ってしまっていて、道理の問題ではないのである。
源氏のこの恋は、元々は、藤壺宮が亡き母・桐壺更衣に大変似ているという母恋いの情から始まった。それが次第に恋情に変わり、やがて「この人しかいない」という源氏にとっては唯一無二の理想の女性に育って行ってしまったのだ。
 一旦火のついてしまった恋は消しようがない。これは源氏のみならず、現代でもしばしばみられる恋の形である。こういう場合は、
 「女は(あるいは男は)いくらでもいるというのに、なにもそんなに無理な恋をしなくてもいいのに」
という忠告は、当事者には意味のないことである。

 でも、それが人間の本然の姿であるといえるのかもしれない。なぜなら、人間とは、「こだわり」という特性を持つ存在であるからである。人は不思議なもので、一旦一つことにこだわりを持つと、そこから抜け出すことができなくなる。「なぜそんな下らないことに夢中になっているの」といっても、本人にとってはくだらないものではないのだから、始末に困る。
 近くの公園に散歩に行くと、毎日四、五人の人が釣り糸を垂れている。小さなオイカワだとかフナだとかを釣っては、すぐ泉に返している。こんな小さな池で毎日毎日釣りをして何が面白いのか、私にはまったく理解できない。これが海や大河で大物を狙い、晩の肴にするというのであれば理解できる。でも本人たちにすれば真剣なことなのだ。それが彼らの今の生き甲斐であり、命なのだから、余人が口をはさむ問題ではないのである。
 いささかたとえが卑小な問題になってしまったが、こだわりが過ぎると、余裕がなくなり視野が狭くなるということを言いたいのである。そしてこだわりは家庭を崩壊させ、時には命を賭け、破滅に至ることもある。
 恋は特に「この女でなければ」というこだわりを生みやすい。そして、恋が死に勝る命になってくる。「ロミオとジュリエット」にしても「娘道成寺」にしても、命を賭けた恋であった。

 でもこれだけでは標記の命題に対する答えになっているとはいえないだろう。紫式部は、なぜ禁断の恋ともいえる、源氏と藤壺宮の恋を熱く語ろうとしたのかという命題に対してである。
 それは紫式部が「あはれ」をとことん追求したかったからではなかろうか。源氏物語の主題の一つが「あはれ」であることに異論はないであろう。「あはれ」とは、もの・ことが変化する時に起こるしみじみしたとした心の作用である。ある人の言葉を借りれば
 「時の移推から生ずる悲哀」
である。自然も時とともに変化していく。その時々に覚える感慨が「あはれ」である。古今集はそれを追求した歌集であると言ってもよい。
 さて、人の心も変化してやまないものである。特に恋(愛)は常に変化してやまない。もちろん変化しない恋(愛)というものもあるかもしれない。いわゆる幸せな恋である。しかしそういう恋は物語にはならない。
 恋そのものが変化してやまないものであるが、特に無理な恋は変化が激しい。危険を伴うもの、禁忌なものほど心の振幅は大きい。そのような恋は、一瞬として心が安定することがない。時に「命に代わるもの」ともなる。源氏が藤壺と閨を共にしている時に詠んだ
 『見てもまた逢ふ夜まれなる 夢のうちにやがてまぎるる我が身ともがな』
の歌もそうである。この嬉しい逢瀬の中に紛れてこのまま死んでしまってもいいと言うのだから、壮絶である。
 また在原業平が、華やかな京を捨てて東下りをしたのも、高子(たかいこ 後の清和天皇の妃で二条の后といわれる)への実りない恋に絶望したからである。彼は
 『京にありわびて(住みずらくなって)』
 『身をえうなきものに(役に立たない者に)思ひなして)京にはあらじ』
と思って京を離れた。本来相手にしてはいけない女性に恋をしてしまったがために、都落ちせざるを得なくなったのだ。でもそういう無理な恋によって引き起こされたあはれであったからこそ、『伊勢物語』の東下りは感動的な物語になったのである。
 
 紫式部は、空蝉や夕顔などの本来源氏が相手にすべきでないいわば遊び心的な恋や、朧月夜(朱雀帝の寵姫)や秋好中宮・玉鬘(いずれも養女)との無理な恋をちりばめ、そして、絶対許さるべきでない藤壺宮との禁忌の恋を物語の中心に据え置いた。そういう恋であるがゆえに「あはれ」の究極の姿が見えてくるからだ。紫式部はそれを求めたのではなかろうか、と私は思っている。


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