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源氏物語

源氏物語たより366

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    紫式部は構想を立てていた  源氏物語たより366
 
 前回は、中野幸一先生の
 「紫式部は源氏物語を書くに際して構想を立てるようなことはしなかった。源氏物語は一巻読み切り型の物語である」
という斬新な説に対して、私の疑問を呈しておいた。それでもまだ気が収まらないので『夕顔』の巻を中心に詳しく読み直してみた。すると紫式部が構想を立てずに物語を書いたなどとは到底考えられないいろいろな場面に出会うことができた。
 また同時に『日本古典鑑賞講座』(角川書店)の玉上琢弥氏の文章も読んでいたのだが、驚いたことに、玉上氏も、中野先生と同じことを言っているではないか。その説をもう一度掲げておこう。
 「実は源氏物語そのものも初めのうちは“昔物語”であったのである。“昔物語”は短編の読み切りであった。源氏物語も初めは読み切りの短編であった。おそらくは“若紫”の巻が、当時いくつもあった短編物語の一つとして書かれ、発表されたのであろう。そして読者の好評を得て、続編を書き、後篇を書きしてゆく、という“昔物語”にもないではなかった発展の仕方をして、何巻かのものになった。・・読み切り短編の集まりだから源氏物語の巻には、女主人公を一巻に一人ずつ取り上げていく」
 中野先生の説と寸分も違わないではないか。『日本古典鑑賞講座』は昭和32年に出版されてもので、五十年以上も昔のものである。ということは中野先生の説を「斬新」と思ったのだが、実は学会の定説であったようである。しかも玉上氏は、源氏物語は「若紫」の巻から書き始められたようにさりげなく言っておられるのだが、その根拠はまるでないのである。「須磨」の巻から書かれたという人もいるし、「桐壺」の巻からであるという人もいる。「若紫」の巻は一巻読み切りでないことは前回述べたところであるし、「須磨」の巻は「明石」「澪標」「松風」へと続いていっている。

 ここで私の闘志は俄然沸騰してきた。学会の定説のような「はずはない!」と。
 中野先生が強調された「夕顔」の巻を詳細に見てみよう。中野先生は、
 「「夕顔」の巻を書いている時に「玉鬘」の巻を構想していたとは到底考えられない。そもそも“玉鬘”の登場そのものがあまりに唐突ではないか」
と言われるのだが果たしてそうだろうか。

 夕顔の急死のショックもやや和らいだころ、光源氏は、夕顔付きの女房・右近を傍らに呼んで、夕顔の生い立ちや履歴についてしみじみと聞く。やはり夕顔はかつて頭中将が愛した女であった。「雨夜の品定め」の時に、頭中将が語っていた“とこなつの女”である。二人は事情があって別れたのだが、頭中将はまだ夕顔に対して未練を持っているようであった。
 あの時、彼女との間には女の子(なでしこ)がいるとも言っていたが、そのことを右近に確認すると、案の定、三歳になる女の子がいるという。
 この情報を得て源氏は勢いたつ。彼は、さらに熱を込めて右近に問いただす。そればかりか、その子を見つけ出して手元に置きたいものと、次のように言う。
 『さて(娘は)いづこにぞ。(他の)人にさとは知らせで、我に得させよ。(夕顔が)あとはかなく(いなくなり悲しみも)いみじと思ふ御形見に(できたら、私は)いと嬉しかるべくなむ』
 そして、いろいろの面でその子を養っていきたいし、そうすることに何の咎もないであろうと、右近に言うのである。異常なほどのご執心である。このご執心が「夕顔」の巻だけで終わるはずはないのである。
 この後も、源氏の意識から、“なでしこ(後の玉鬘)”のことが離れない。そして、頭中将に話してやりたいという衝動にさえ駆られるのである。“玉鬘”が、彼の脳裏に強烈に印字されたといことである。
 このような事情を見ると、“玉鬘”をいずれはどこかに登場させようと紫式部が考えていたと考えるのが自然である。もちろんその登場のさせ方がはっきりした形を取っていたかどうかは紫式部に聞く以外はないが、少なくとも“玉鬘”は、この「夕顔」の巻で消えてしまうような人物ではないのである。

 その“玉鬘”は、なんと十八年後に登場する。しかも九州を彷徨するという悲惨な境遇を背負った女性として登場するのだ。確かにとんでもない時間を隔てて、とんでもない人生を背負って登場するものだから、十八年前にその構想を立てていたとは思えなくなるのだ。しかしそれは錯覚である。
 考えてみれば、紫式部が、源氏物語を執筆していた期間が二十年も三十年もの長きにわたったわけではないのだ。おそらく寛弘五年(1008年)を前後する六、七年間であろう。まして「夕顔」の巻から「玉鬘」の巻に手をかけるまではほんの数年(二、三年か)であったはずだ。「玉鬘」の巻以降には「若菜上、下」や「宇治十帖」などの超長編が控えているのだ。
源氏の“なでしこ(玉鬘)”に寄せる関心が異常なほどであったのを考え合わせれば、既に「夕顔」の巻で、“玉鬘”をどのような人物で、どのような人生を背負って、源氏とどのようにかかわらせていくか考えていたことは十分予測できる。
 古語に「まことや」という言葉がある。「ああ、そうそう、忘れていたけど・・」というような意味であるが、“玉鬘”という女性は、忘れていたのを急に思い出すような人物ではないし、また読者にそそのかせれて書くような女性でもないのである。
紫式部は、いったん取り上げた形象をいい加減に扱うような作家ではない。まして“なでしこ”は強烈な印象を源氏に与えている。あだやおろそかにするはずはない。
 また、紫式部は、もの・ことのつながりを神経質なほどに気にする作家で、きめ細かい配慮のもとに物語を展開していく。中野先生は
 「紫式部は決して卓越した人物ではなく、あの物語が生まれる基盤があって生まれたのである。彼女を特別な才能の持ち主と考えるのは間違いである」
と言わるのだが、私は、やはり紫式部は空前絶後の傑出した人物であるがゆえに源氏物語が生まれたのだと思う。これほど一つ一つの形象を大事にする作家が後の世に出たであろうか。


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