源氏物語

源氏物語たより373

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   俵万智の源氏物語の歌の解釈  源氏物語たより373

 俵万智の『愛する源氏物語』(文春文庫)という本が独特で面白い。源氏物語の中の歌を俵万智流に訳しているのだが、単に現代文に訳すというのではなく、何と源氏物語の歌を現代語短歌に歌い直しているのだ。そもそも源氏物語の歌は元々内容が難しいし、また単に現代文に訳しただけでは、歌のもつ響きが消えてしまうのだが、俵万智の翻訳歌は、内容もよく伝わってくるし、源氏物語の持つ味わいや響きが保たれていて、画期的な試みといえる。
 たとえば、『桐壷』の巻の
 『かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり』
の歌が、次のような短歌に訳されているのである。
 「限りある命だけれどどうしても今は生きたいあなたのために」
 見事な翻訳歌である。なにか『海潮音』(上田敏がヨーロッパの詩を訳したもの)を彷彿とさせるものがある。しかも元歌の歌意も誤りなく読みこまれている。
 ただ、「いかまほしきは命なりけり」の重々しい響きはなくなってしまって、どこかのお兄さんとどこかのお姉さんの、それなりに深刻な思いが伝わってくるくらいであるのが残念である。
 しかし、いずれにしても俵万智の斬新な試み、新機軸への努力は称賛に値する。
 
 ところで、「かぎりとて」の歌は、桐壺更衣が、命の瀬戸際に帝に向かって歌ったものであるが、この歌がいつも問題にされるのは、贈答歌の形に則ってないということである。通常、男女の贈答歌は、まず男が女に詠み掛け、それに対して女が応える形を取る。この習慣は、恐らく古事記のイザナギ、イザナミの「国生み」の時のタブー(イザナミ(女)が、先にイザナギ(男)に声をかけてしまったことが、悪い結果を引き起こしてしまった)からきたものであろう。
 この場合も、更衣(女)は、帝(男)が詠い掛けていないのに自分から帝に詠い掛けているのは可笑しいというわけである。
 これに対して俵万智は、その直前の帝の言葉が、男からの詠み掛けの形を取っているので、これでいいのだと解釈している。私もそれが正しいと思っている。帝の言葉とは
 『限りあらむ道にも、遅れ先だたじと契らせ給ひけるを、さりともうち捨ててはえ行きやらじ』
 (命というものは限りあるものではあるけれども、どちらかが先に逝ってしまうなどということがないようにと契ったではないか。いくらなんでも、あなたは私を捨てて先に逝ってしまうなんていうことはないでしょう)
である。一目で、更衣の歌は、この帝の言葉を受けて詠ったものであることが分かる。もしこれを俵万智流に歌にすれば
 「限りある命なれども いず方も先には逝かじと契りしものを」
というところであろうか。
 とにかくここまでは、俵万智と私の見解は、まさに相思相愛、琴瑟相和すが如くぴたりと一致した。

 ところが、『夕顔』の巻になって、二人の見解は全く懸隔してしまったのである。
 この場面も、いつも国文学者の間で問題にされるところである。光源氏が、五条の大路で車を止めて、夕顔の花の咲く屋敷を覗きこんでいると、その家の女主が、源氏に歌を詠みかけてきた。
 『心あてにそれかとぞ見る 白露の光りそへたる夕顔の花』
 これも贈答歌の形に添っていないものになる。そのために
 「女から(歌を)贈るという行為については、娼婦だったんじゃないかとか、頭中将と間違えて贈ったんじゃないかとか、さまざまな説が出されている(『愛する源氏物語』より)」
ということになる。このことについて俵万智はこう解釈しているのだ。
 「つまりそれほど、(夕顔の歌の詠み掛けは)普通ではない行為だったことは確かだ」
 先に、『桐壷』の巻では、更衣の歌は、その前にある帝の言葉を受けたものであるから、贈答歌の形式にマッチしていると解釈した俵万智ともあろう者が、ここでは源氏の『ひとりごち給ふ』声に、全く気づいていないのだ。源氏の独り言とは
 『をちかた人にもの申す』
である。これは古今集の旋頭歌から引いたもので、ある男が、「そこに咲いている花の名は?」と聞いた時の歌である。この独り言を、ほどもない屋敷の女主は耳敏く聞き分けて、源氏に
 「あなたのお聞きになっている花は、夕方ではっきりとは致しませんが、ひょっとすると夕顔の花のことではございませんでしょうか」
と応えたのだ。したがって立派に贈答歌の形式にのっとっていることになる(このことは『たよりNO84他に詳しい)。だから、「娼婦」などという考えが出てくるはずはないし、まして「頭中将」と間違えたわけでは絶対ないのである。俵万智は、従来の国文学者の解釈にがんじがらめになってしまっていて、『桐壷』の巻で見せた柔軟な発想を、ここでは完全に封印してしまっている。
 ここで彼女がもう一つ過ちを犯しているのが、源氏が顔を隠して夕顔に通ったことを「覆面をして」と考えていることである。いくら何でも恋人のところに行くのに覆面姿で行くだろうか。それは、彼女流に言えば、
 「恋愛の観点から思うとかなり興ざめである」
ということになる。こういう解釈を基にするから、六条の廃院で、源氏が初めて自分の顔を見せ、感想を聞いた時の夕顔の返しの歌
 『光ありと見し夕顔の上露はたそがれ時のそらめなりけり』
を、こんなふうに訳してしまうのだ。
 「あの日あの道たそがれどきの横顔は今よりずっとハンサムだった」
 あの夕顔が「ハンサムだった」などというだろうか。私の解釈をしめそう。
 「夕顔の花に光を添えてくださった、などとあの時は口幅ったいことを申し上げてしまいましたが、あれは夕暮れ時の見間違いだったとしてお許しいただきたいと思います。今こうしてお顔を拝見いたしますと、とてもそんな形容では言い尽くせないほどにご立派でいらっしゃいます(詳しくは『たより86』を)」
 上記のように誤って解釈した俵万智は、
 「夕顔の性格は、それまではひたすら弱々しく、はかなげだったのに、「心あてに」の歌も「光ありと」の歌も、驚くほど大胆で婀娜っぽいものになっている。彼女の和歌における変貌ぶりが際だって感じられる。がその温度差は、どんな人にも必ずあるものだ。散文では言えないことを、思い切って言葉にする勇気を、和歌は与えてくれる(一部意訳)」
などというとんでもない誤りを重ねてしまった。夕顔の二つの歌は決して大胆なものでも婀娜っぽいものでもなく、実に素直な優しい歌だ。
 現代歌壇のスターも、とても紫式部の深慮遠謀には及ばないというしかない。それは源氏物語の読み込みの浅さからきたものではなかろうか。



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