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源氏物語

源氏物語たより382

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   源氏物語五十四帖以外の巻々  源氏物語たより382

 早稲田大学教授・中野幸一先生の講義『源氏物語の謎』の最後は、「源氏物語五十四帖以外の巻々」という題であった。その話の内容は、私なりの理解で要約すると次のようになるのではなかろうか。
 源氏物語は言うまでもなく、忠臣蔵や義経記と並ぶ国民文学なので、民衆に愛読されるにつれてさまざまな変貌を遂げていき、いろいろな形を残してきた。特に源氏物語には、読者の謎を呼ぶような場面が多いので、その謎を埋めるべく後世の人々はさまざまな試みをしてきた。例えば「雲隠」の巻などは、巻の名だけが存在して中身がない。そこで、その中身に興味を持った後世の読者が、『雲隠』の外伝を創作している。
 また、超美人の玉鬘が、思いもかけない無骨な男・鬚黒大将などと結婚してしまったことに飽き足らなく思った読者が、『さくら人』などという作品を創作した。
 また、『雲隠れ六帖』(雲隠れ、さくら人、すもり、のりの師、ひばり子、八橋)などという作品は現在でも残っているが、消えてしまった外伝も多数ある。
 江戸の寛政期には、例の本居宣長が、物語上には描かれていない六条御息所と光源氏の熱々の関係を『手枕』という作品に仕上げているが、これはごてごてした内容で作品としての完成度は低い。
 源氏物語の中で、最も読者の疑問を誘うのが、物語の終末であろう。五十四帖という超長編物語にしてはあまりにもあっけない終わり方なのである。そこで不審に思った者が創作したのが、『山路の露』という物語である。この作品は現在でも存在し、情緒豊かな結構完成度の高い作品である。内容は、出家した浮舟を、薫が還俗させ子供までもうけるというものである。

 中野先生の講義の内容を長々引用することになってしまったが、非常に興味あるものであった。もちろん、源氏物語は、『更級日記』などでも分かる通り、多くの人に物語そのものが鑑賞されてきたが、それだけではなく、いろいろの分野にその影響を与えてきたことは私もよく知っている。特筆されるのは源氏物語に関する絵画の多さであろう。江戸期には土佐派などの源氏絵で溢れているほどである。またさまざまな調度や陶器、あるいは日用品などにも源氏物語は盛んに使われてきた。 
 しかし、中野先生の話のように源氏物語の空白(謎)を埋めるべく、これほど多くの物語が創作されていることは知らなかった。中野先生が完成度が高いと言われる『山路の露』などは読んでみたいものと思っている。(中野先生は、この物語から早稲田大学の入試問題を作成されたという)

 源氏物語の終末は本当にあっけないもので、これで物語が終息したとは誰も思わないだろう。薫と匂宮という、当代きっての二人の貴公子から愛された浮舟は、身を処するすべを失って、宇治川に身を投げる。たまたま通りかかった初瀬詣からの帰りの横川僧都の母一行に見つけ出され、小野に住むことになる。その後、生きる意志も気力を失った浮舟は、横川僧都によって出家の道に入る。既に薫にも匂宮にもなんの未練も情も感じなくなっていた。
 ところが一方の薫は、まだまだ浮舟に対し未練たっぷりなところがあり、浮舟の弟・小君を小野に遣わす。しかし何の成果もなく戻ってきた小君を見て、薫はこう思う。
 『(浮舟を)「人の、隠しすゑたるにやあらむ」と、わが御心の思ひよらぬ隈なく、(宇治に)落とし置き給へりしならひにとぞ』
 (あれこれ考え尽くした挙句、「誰か男が、浮舟をどこかに隠し捨て置くのであろう」と思うのである。かつて自分が浮舟を宇治に隠し捨て置いたように・・)
 これが、あの超長編の源氏物語の終末なのである。何とあっけなくも無情な終わり方であろうか。これでは、誰もがこの続きを書きたくなるというものである。『山路の露』では、薫は、浮舟を還俗させ、子までなしたという。そうでもしなければ、せっかくここまで読んできた気持ちが落ち着かないというのであろう。
 でも残念ながら、あの浮舟が還俗するはずはないのである。薫や匂宮のことはもとより、この世の一切の恩愛をきっぱり捨てているのだ。生半可なことで出家を思いとどまるはずはない。ただ唯一彼女の心を動かすものは、「母」であった。小君が小野に会いに行った時に、今更会う必要があろうか、それどころか小君にも薫にも、自分がこの世にいることさえ知られないでいたいもの、と頑なに思う浮舟なのだ。
 そんな浮舟も、ただ次の一言だけは、付け加えるのである。
 『かの人(母)、もし世にものし給はば、それ一人になん対面せまほしく思ひ侍る』

 このように、源氏物語は「母」で終わっている。そしてそれは源氏物語の冒頭『桐壷』の巻に戻るのである。このことは非常に大事な点であるにもかかわらず、誰も指摘しようとしないのを、私は常に不思議に思っていた。中野先生の話を聞いて、やはり私の考えは間違っていないと確信できた。『山路の露』を作ってはいけないのだと。
 『桐壷』の巻は、帝と桐壺更衣の純愛が柱になっているものの、母更衣と源氏との関係、母に似た藤壺宮と源氏の関係がさらに大きな柱であることは否めないのだ。
 そして、源氏物語のさまざまな場面で、母(父)と子の問題が繰り返されている。藤壺中宮と(後の)冷泉帝、明石君と明石姫君、朱雀院と女三宮、紫上と明石中宮・・。 
 そして次の歌が何度も何度も使われていることに注意しなければならない。私が数えただけでも十二回もあった。見落としているものがさらにあろう。
 『人の親の心は闇にあらねども 子を思ふ道に惑ひぬるかな』  後撰集
 要は、『夢の浮橋』の終末は『桐壷』に戻るということである。源氏物語は母・子を軸にして壮大な循環をしているのだ。人の世が輪廻するように。
 したがって、薫が、浮舟を還俗させ、子まで設けてしまうのでは、どこまでも伸びていく直線になってしまって、巡るということがなくなってしまう。
 源氏物語は『夢の浮橋』をもって、見事に終結している。いや永遠に循環してやまないということである。
                     
                                                         関連文書『たより117』


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