源氏物語

源氏門も語りたより386

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   『蓬生』の巻の結語  源氏物語たより386

 『蓬生』の巻は、『末摘花』の巻の後日談である。
 許されて明石から帰京した光源氏は、
 『ただ今は、兵部卿の宮の御娘(紫上)より外に心分け給ふ方(女)もなかめり。昔より好き好きしき御心にて、なおざりに(気まぐれで)通ひ給ひける所々、みな思し離れ』
てしまい、久しぶりに再会した紫上にもっぱらかかりきっているので,好き心で付き合っていた女性たちのところには今は通っていないというのである。まして末摘花のところなどには通うはずはない。そもそもすっかり忘れているのだから。
ところが、花散里を訪れようとした途次、偶然荒れ果てた邸を見かけ、「いつか来た記憶のある邸だな」と思って寄ってみることになった。もちろん末摘花の邸である。
 こういう経過をたどって、その後また、源氏は彼女の生活上の世話をみるようになるのである。貧窮のどん底にあえいでいた末摘花も、ようやくそこから抜け出すことができるようになった。
 そうなると、末摘花を見限って散り散りになっていた元の雇人なども,恥ずかしげもなく彼女の邸に戻ってくる。そんな末摘花の状況を見て、彼女が最も頼りにしていた侍従を九州くんだりまで連れ去ってしまった叔母もひどく驚く。また、侍従は侍従で、なぜもっと心長く末摘花を世話してやらなかったのかと悔やむのである。

 ここで、『蓬生』の巻は終わる。終わりに当たって語り手はこの巻を次のように結ぶ。
 『いま少し問はず語りもせまほしけれど、いと頭痛く、うるさく、もの憂ければなむ。今またもついであらむ折に、思ひ出でてなん聞こゆべきとぞ』
 「末摘花の再度の幸せにかかわるあれこれを、問わず語りにしたいのだけれど、頭は痛いし、面倒だし、もの憂いので語るのはここで止めておく。またの機会があったら、思い出して語ることにしましょう」というのである。「問わず語り」とは、人が問いもしないのに自分から語りだすことである。つまりここでは喋りたいことは山ほどあるのだけれども、頭が痛いし面倒だから止めておきましょう、というのである。
 紫式部得意の「省筆」である。この省筆によって冗長になるのを防ごうというのである。源氏物語よりも前に書かれた『宇津保物語』などは、読んでいて嫌になるほど、これでもかと同じようなことを繰り返す。『宇津保物語』のヒロインである「あて宮」への求婚者などは、十二人も十三人も次々出て来ては、「あて宮」に恋の歌を贈るのである。いい加減にしてくれと思ってしまう。
 また宴などでは三十人以上の歌をずらりと並べて紹介したりするのだから、飽き飽きしてくる。
 紫式部は、これらの物語の反省に立って、「省筆」の手段を駆使するようにしたのだろう。「この程の事、くだくだしければ例のもらしつ」とか「さのみ書き続くべきことかは」とか「珍しからぬこと書きおくこそ憎けれ」とか言って、適当なところで省略してしまう。それがまた源氏物語に緊張感を与えているのだが。

 ただ、この巻の省筆は単なる省筆ではないので注意を要する。「言いたいことはいっぱいあるのだが」というニュアンスを持って終わっているところが曲者で、いずれ末摘花のことを語らずにはおかないよという暗示がここには隠されているのである。 
 末摘花という人物は、往々にして「脇役」であると言われてしまう。しかし、私は決してそうではないと今までも何度も強調してきた。末摘花は、源氏物語の主題である「あはれ」の反面教師的な重要な役割を担っているからだ。末摘花は、『末摘花』と『蓬生』の二巻にわたって主人公として活躍している。こんなに活躍する女性は、玉鬘と浮舟以外にはいない。いかに紫式部が、彼女を重要視しているかがこれだけでも分かるのだが、それにもかかわらず、多くの国文学者は彼女を「脇役」と言う。
 再度言えば、先の
 「今またついであらむ折に、思ひ出でてなん聞こゆべきとぞ」
という結語は、「まだまだ末摘花の話は終わりませんよ」という宣言でもあるのだ。末摘花は、この巻をもって消えてしまうようは「端役」ではありませんよという強いメッセージなのである。
 では語り手(紫式部)は、彼女のどういうことを語りたいというのであろうか。それは、『蓬生』の巻が徹底して暴いてきた末摘花の「古体」を守株して、変化しようとしない姿のことをである。
 『蓬生』の巻に非常に印象的な場面がある。源氏が惟光に「末摘花の邸に入って、彼女が今どうしているか聞いて参れ」と命じた場面である。惟光は、邸に入って行って老女房にこう問いかける。
 「末摘花の姫君が、今も変わらずにいられるようであれば、源氏さまはお訪ねしてみたいというお気持ちを今も持っていられるようなのだが・・」
 これに対して、老女房はこう応える。
 『かはらせ給ふ御有様ならば、かかる浅茅が原をうつろひ給はでは侍りなむや』
 (お心変りなさるような姫君ならば、こんな浅茅が原のようなお住居を動かずにおいでになれるものでしょうか  円地文子訳 新潮社)
 誠に強烈な皮肉である。もの・ことに当たっていろいろと考えや行動を変えることができるような人だったら、どうしてこんなにひどい住まいに今まで住んでいましょうか、という老女房の辛辣な批評なのである。しかも、この老女房は末摘花の乳母なのである。乳母でさえ、彼女の全く現況を変えようとしない変質性に呆れ果てているのだ。
 またこの時、源氏が末摘花の部屋で目にしたのは、荒れ果てた渡殿や軒の端などから何の支障もなく華やかにさし込んでくる月の光りとともに、
 『昔に変わらぬ御しつらひ(飾り付けや調度などの設備)』
であった。それを今でも
 『同じさまにて年古りにけるも、あはれなり』
と源氏は感じ取るのである。「変化」しないものには「あはれ」の情はあまり起きないはずなのに、あまりにも現状を変えようとしない末摘花の有様に、さすがの源氏も「あはれ」をさえ感じてしまうのである。
 話し手は、これらに関する話だったらいくらでも限りなくありますよ、でもそんなことを羅列しても頭が痛くなるばかりだし、もの憂いだけだからと言って筆を置くのである。

 末摘花は、この後『初音』や『行幸』の巻にも登場する。もちろん主人公としてではないが、古いしきたりに固執したり、それに縛られて非常識な行動をとったり、あるいは古臭い歌を詠んだりしては、源氏の蔑(さげす)みの対象になる。
 語り手は、『末摘花』や『蓬生』の巻で発揮された彼女の古体な姿を絡ませては、その後もポツリポツリと問わず語りに、『蓬生』の巻の結語を再現していくのである。断片的な登場ではあるが、これらの場面になると、不思議に紫式部の筆は躍動する。


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