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源氏物語

源氏物語たより387

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   それぞれの死   源氏物語たより387

 それなりの歳になると、死について考えることが多くなるものである。源氏物語の中でも多くの人が死んでいる。死ぬことに、美しい死に方も醜い死に方もないのかもしれないが、源氏物語に登場する人物のそれぞれの死の姿を見つめる時に、「自分もあんなふうに・・」と考えさせられる死に方もあるものだ。
 それでは源氏物語の何人かの死が、どのように描かれているかみてみよう。

 【桐壷更衣】 
 死の直接の場面は描写されてはないが、帝の元を退去する時にはもうほとんど意識混濁の状態であった。そして、里に帰りつくや間もなく亡くなっている。二十歳前後であろうか。
 更衣は、後宮の女御・更衣たちの厳しい怨嗟の中で自らの命を縮めてしまった。いよいよ帝と別れる時には、
  『息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげ』
な様子をして帝の顔を凝視しながら宮中を去って行ったのである。こよなく自分を愛してくれる帝と三歳の幼子・光源氏を残して逝かなければならないこともあって、恐らく無念の死であっただろう。
 【夕顔】
 源氏が強引に誘った六条の廃院で、夜中に突然死している。したがって、死に際しての彼女自身の意志や感情は一切描かれることはない。これもまだ若く、二十数歳であったはずだ。源氏に見出されようやく安穏な生活が、と思った矢先に、当の源氏によって死の道に導かれてしまった。これも幸せな死とは言いかねる。
 【葵上】 
 物の怪と出産による死で、二十六歳。源氏が外出している最中のことである。
 源氏とは常に打ち解けることのない仲であったが、最後の最期には二人は理解しあえたような雰囲気もあった。生き延びていれば、これから源氏と幸せな人生を送ることができたであろうに、残念な死である。死の描写は
 『たへ入り給ひぬ』
という簡単なもの。
 【藤壺宮】
 この数カ月というものひどく病んでいた上に、仏道の行いに精を出し過ぎたこともあって、さらに体を弱めてしまった。最近では柑子(かうじ 果物)にさえ手を触れられず、憔悴し切っていた。
 臨終の間際、源氏は御簾を隔ててほのかに宮の言葉を聞いている。そして今度は、源氏が、宮を見舞う言葉をかけている時に、
 『ともし火などの消え入るやうにて、はて給ひぬ』
のである。御歳三十七歳。
 【柏木】
 『泡の消え入るやうにて失せ給ひぬ』 三十二、三歳。
 あれほど恋い焦がれた女三宮との恋が叶っての死であるから、幸せな死と言っていいのかもしれないが、実際には源氏の一睨みの前に逝ってしまった。彼は、太政大臣の嫡男という身分であったのだから、その屈辱は、計り知れないものがあったろう。
 【紫上】
 『明け果つるほどに消え果て給ひぬ』
とあるだけで、源氏物語の最大のヒロインの死にしては、簡略な描写である。
 彼女は三十九歳の時に一度人事不省に陥っている。源氏の必死の看病で命を持ちこたえたのだが、その四年後、「明け果つるほどに消え果て」たのである。
 臨終の場に源氏は付添っていたと思われるのだが、それは描かれていない。死を前にした彼女の手を取っていたのは、養女の明石中宮である。これは何を意味するのであろうか。紫上が、源氏に何度も懇願していたのは「出家」であった。ところがその願いを源氏はいつも踏みにじってしまった。死を前にして、源氏でなく明石中宮に手を握らせたのは、そんな紫上の感情を配慮した作者の憤りであろうか。
 いずれにしても紫上の死は哀しい。
 【大君】
 『ものの枯れゆくやうにて、消え果て給ひぬ』 二十六歳。
 大君は、男不審ということもあったのだろうか、薫の熱心な求愛を徹底的に拒否した。もともと体の丈夫でない彼女は、男よりもむしろ自の命が消えることを望んでいたような節もある。妹(中君)の将来を心配するという思いは残していたものの、死することにさして未練はなかったように感じる。

 さて、これらの死の中で、私が一番羨ましく思うのは、藤壺宮の死である。
 『ともしびなどの消え入るやうにて』
という死に方は、何とも静かで自然ではないか。これは諸解説書によれば、釈迦入滅の時の比喩表現を借りたものであろうと言う。法華経に
 「(釈迦が)まさに涅槃に入ること、煙尽きて燈火(ともしび)の滅(き)ゆるが如し」
とあるそうである。「煙が尽きる」とは、燃えるべきもの(薪)がなくなるということである。薪がなくなれば火は消える。藤壺宮は、あたかも薪が無くなったために火が消えたような死であったというのである。同時にそれは釈迦の死をイメージしていると諸解説書は言う。
 藤壺宮は、これ以前に自分の寿命が尽きるであろうことを悟っていた。彼女は、もう自分には燃えるべき薪は残っていないということを自覚していたということである。
 「燃えるべき薪がない」ことを自覚しての死とは、この世に何の思いも残さない死ということである。そんな心境でいられれば、死に対して何の恐れもないし、何の苦しみもない。ただ最後の炎が消えていくのを待つだけである。それは天命とか宿命とかいうものではない。ただ薪が無くなっただけである。
 私もこんな心境であの世に行けたらと、真に思う。
 そしてあの世には私を生んでくれた母がいるから、源氏物語の話でもしてみたい(母も源氏物語を教えていたそうである)。またかつて好きだった人もいる。今度は勇気を出して手でも握ってみたい。そんなことを頭に描きながら目をつぶることができたらどんなに幸せであろうか。
 藤壺宮の死は釈迦入滅になぞらえられているというが、私はそんなことはどうでもいいことだと思う。思い残すこともなく安穏に死んで行けたらそれで大満足である。そもそも藤壺宮が釈迦になぞらえられる根拠はないのだ。
 仏教では「この世は苦である」と説いている。確かに「生、老、病、死」は苦である。この世は苦に満ちている。特に死は、苦のうちの最大のものである。それを苦でなくするのは、この世に思い残すことがない状態にすることであろう。そうすれば藤壺宮のように、「薪が尽きる」のを待てばいいだけになる。

 西行法師は
 『願わくは花の下にてわれ死なん この如月の望月のころ』
と詠っている。
 「薪の燃え尽きる」かたちで、しかも美しい桜花に囲まれ、おぼろの月に照らされて目を閉じることができたら、これほど幸せな終焉はない。


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