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源氏物語

源氏物語たより402

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   映倫すれすれ 源氏の行為 〔胡蝶〕 源氏物語たより402

 見るたびに、玉鬘は、彼女の母・夕顔に似ていると光源氏は思う。「これほど親に似る子はあるだろうか」と思うにつけても、源氏の心は乱れ、自己抑制が効かなくなっていく。かつて源氏と夕顔は心の限りを尽くして愛し合った。
 「そのお母さんを生きている限り忘れることはないし、彼女のことを思うと今まで心休まることとてなかったのだよ」
と玉鬘を前にして涙を流すのである。そしてこう言う。
 『(お母さんに酷似しているあなたを)かくて見たてまつるは、「夢にや」とのみ思ひなすを。なほ、えこそ忍ぶまじけれ。思し疎(うと)むなよ』
 「あなたは、私が好きだったお母さんにとても似ている」と言うだけでも、もう恋心を告白しているのと同じなのに、「なほ、えこそ忍ぶまじけれ(やっぱり、あなたへの思いはどうにも我慢できそうにないのだよ)」とまで言うのだから、とんだドンフアンである。
 この時、源氏、三十六歳。それが二十二歳のうら若い女に向かって「我慢できない」と言うのだ。読んでいる者の背中がぞくりとする。もちろん二人は当時とすれば似合わない歳の差というわけではない。でも玉鬘は田舎育ちで、男女の経験が浅い初心(うぶ)な女性である。それに何より問題なのは、源氏は玉鬘の養父代わりであることをすっかり忘れていることである。あるまじき告白と言うしかない。
 ところが、源氏にとっては、「不徳など何かは」で、「えこそ忍ぶまじ」き気持ちを、実践に移してしてしまうのである。
 『御手を捉え給へれば』
 何とも言えない早業で、彼女の手を握ってしまった。玉鬘は「困まったことになった」とこらえきれずにうつ伏してしまう。
しかしそれは、源氏にとってはかえって好色心をかき立てる仕草に他ならない。彼の眼は女の体を舐め始める。彼女は
 『手つきのつぶつぶと肥え給へる、身なり肌つきの、細やかに美しげなる』
様をしているのである。まさに一触即発の状況になってしまった。これを映像にしたらどういうことになるのであろうか。
 
 うつ伏せになっている女に、男が覆いかぶさるようにしている。男の顔が大写しになると、男の眼が、容赦なく女の上を這い出し始める。今度は華やかな衣の裾から男に握られた女の手が大写しされる。その手は若々しくつぶつぶと匂うようである。
 女の身体は華奢で、その肌の細やかといえば、えも言われぬ美しさである。
 この肌は女のどの部分を写しているか。もちろん手ではない。また顔でもない。なぜなら彼女はうつ伏せになっているのだし、そもそも扇で顔を隠しているのだから見えるはずはない。とすればうなじの肌だろう。女のもっとも官能的なところである。黒田清輝の「湖畔」を思い浮かべるといい。その肌は弾力があってすべすべと輝いてて、その部位を男の目が執拗に舐めている。・・
 
 小学生の頃、夏休みに、納涼映画祭ということで、学校の校庭で映画の上映がよく行われた。恋愛ものなどで危ない場面になると、映画技師がレンズのところを覆ってしまったものである。この場面なども、男が女の手を捉えた瞬間に、映画技師はレンズに蓋を被せたことだろう。映倫も通らない危うい場面である。
 先ごろ、ラジオを聞いていたら、奇妙なことを言っているではないか。
 「手には心があるが、男の下半身には心がない」
 けだし名言である。実は、この時ラジオは不倫を話題にしていたのだ。「どこまですると不倫になるか」ということが問題であった。その番組のゲストは
 「手を握るだけで不倫になる。なぜなら手には熱い心が籠っているからである」
という持論を披瀝した。確かに男の下半身となると倫理も道徳もない。相手も選ばない。ところが手をつなぐという行為は、愛情なしでは成立しないものである。
 源氏の行為は、この定義の境界を越えているばかりでなく、義父としてあるまじきもので、背徳行為そのものである。

 源氏の背徳は、この後さらに進んでいく。彼は言う。
 『浅くも思ひ聞こえさせぬ心ざしに、また添ふべければ、世にたぐいあるまじき心地なんするを』
 「今まであなたのことを浅くも思っていなかった愛情の上に、さらにもう一つ別の愛(恋心)が加わって行くのですから、これこそ世にたぐいないものと言えるのではないでしょうか」と言うのだ。勝手な論理を通り越して破天荒な解釈である。
 これが現実のこととしたら、とても許されないことで、そのどろどろした欲望の渦巻には、誰もが目を背けることであろう。ところが、光源氏の行為となると、醜さも不逞も不徳も感じなくなってしまうのだから不思議なことである。もちろん物語であるという安心感はあろうが、そればかりではないような気がする。
 一つには、美男と美女はそうなるものという宿世感(常識か諦観か)が我々にはあるので「これも、仕方ないか」と許してしまうのだ。また源氏のこだわりのないあけすけさも、嫌らしさや醜さを消してしまうということも事実である。
 そして何よりも、和歌をちりばめたり、機知豊かな言い回しをしたりする世界の中で物語が展開していくから、読者はそれに惑わされて、なにをしても源氏のすることはスマートで美しく高尚であると錯覚してしまう。そして、全てを浄化してしまうからではなかろうか。
 作者は源氏の行為を
 『さかしらなる(余計な)御親心なりしか』
と批判しているのだが、そのすぐ後の文章で、源氏の全ての行為を洗い流してしまう。
 『雨やみて、風の竹に鳴るほど、はなやかにさし出でたる月影、をかしき夜の様』
 誰にも許されるという源氏も、幸せな人だ。


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