源氏物語

源氏物語たより413

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   源氏物語の歌   源氏物語たより413

 (ここ三週間ほパソコンが故障していたため、お手上げの状態でいた。とにかくパソコンがないと身動きもできないというのだから、現代は便利のようで不便なものである。源氏物語のころはすべて手書きであったことを考えると、この程度のことで愚痴を言うのも贅沢というものだが、いったん染まってしまった便利はなかなか手放せるものではない。
 私が、パソコンで何より便利だと思うのは、書いた文章の段落を入れ替えようとする時に、その段落全体を一気に移動できることだ。源氏物語は原稿用紙でいえば2500枚にもなる。これほどの長編になれば、段落の移動をしなければならない場面にしばしば直面したはずで、そんな時には紫式部もさぞかし手間取り「なんと面倒な!」と思ったのではなかろうか。
 ともかく三週間ぶりにパソコンが戻ってきたので、源氏物語を読んでの私なりの考えや感想を再び文章にしていってみようと思う) 

 源氏物語の歌は、概して上手とは言えない。もちろん私に歌の良しあしが分かる能力があるわけではないが、それでも「これは素晴らしい」と思う歌は源氏物語には少ない。ある有名な人が「紫式部は歌詠むことよりも物語を作る才に優れている」と言っているそうだが、確かにそう思う。作者自身、物語の中でしばしば歌について
 「あまりいい出来の歌ではありませんね」
と断っている。源氏物語などには贈答歌が多いのだが、贈答歌はどうしても儀礼的、形式的なものになってしまって、心のこもらないものになりがちである。
 もちろん源氏物語の歌は、物語の展開上いずれも見事な役割を果たしていることに違いはないのだが、歌そのものを独立して考えてみると、「これは!」と思うものは意外に少ない。

 『限りとて別るる道の悲しきに いかまほしきは命なりけり』
  (桐壷更衣が死の間際に、「愛する人を残してこのまま死にたくありません。もっと生きたいのです」と切実に桐壷帝に   残した歌 『桐壷』の巻)
 『見てもまた逢う夜まれなる夢のうちに やがてまぎるるわが身ともがな』
  (源氏が、藤壺宮に忍んで行き一夜を共にした時、「どうせならこの幸せの最中(さなか)に消えてしまいたい」と藤壺宮 に訴えた歌 『若紫』の巻)
 『とけて寝ぬ寝覚めさびしき冬の夜に むすぼほれつる夢の短さ』
  (ある夜、源氏の夢に藤壺宮が現れるが、一瞬にしてその姿は消えてしまう。なんと頼りない夢であったことかと嘆いた  時の歌 『朝顔』の巻)
 『おくと見るほどぞはかなき ともすれば風に乱るる萩の上風』
  (紫上が、死を間近に「私の命は、萩の葉の露が風に吹かれてすぐ消されてしまうようになんともはかないものです」と 諦観交じりに源氏に詠った歌 『御法』の巻)

 など、私が「いいなあ!」と思う歌は十数首に過ぎない。

 『蛍』の巻に、光源氏と花散里が歌を詠みかわす場面がある。
 五月五日の日、六条院の夏の町では、上達部をはじめ多くの若者たちが集まってきて、競射など様々な遊びが催された。夏の町は花散里が女主として取り仕切っているところである。この催しで本当に久しぶりに夏の町が脚光を浴びることになった。そこで花散里は
 『この町のおぼえきらきらし』
と大変名誉に思うのである。源氏は日ごろ紫上の春の町にばかりいて、花散里を訪れることなどはない。ところがなんとこの日は、花散里のところに泊まることになったのである。そこで彼女はこう源氏に歌を詠みかける。
 『その駒もすさめぬ草と名にたてる汀の菖蒲(あやめ)けふや引きつる』
 「すさめぬ」とは、好まない(目もくれない)という意味で、菖蒲草などは馬さえ目もくれないつまらない草であるけれども、五月五日ということででしょうか、今日は珍しく馬がその草を食べています、という意味である。「菖蒲」は花散里が卑下して自分に例えたもの。もちろん「駒」は源氏を指す。多分に皮肉な歌であるが、源氏を恨んで詠ったものではない。ちょっと戯れに詠いかけたものである。
 この歌に対して例のごとく筆者はこう言う。
 『なにばかりのことにもあらねど』
 「別に歌としてはどうということでもないが」ということだ。確かにその通りで、名歌でもなんでもない。五月五日の菖蒲の日に引っ掛けて、縁語などの技巧を駆使し、機智を利かして詠っただけである。しかし源氏にすれば日頃の無沙汰があるので、胸にちくりと刺さるのだ。だから「なにばかりでもない歌」にも「あはれ」を覚えるのである。そこで彼はこう返す。
 『鳰鳥(にほどり)の影を並ぶる若駒はいつか菖蒲に引き別るべき』
 「鳰鳥」とはカイツブリのことで、カイツブリのようにいつもあなたとぴたりと寄り添って影を並べている若駒(源氏)は、「駒も好かない」とあなたは言われるけれども、菖蒲(花散里)を嫌って別れることなどどうしてありましょうか、という意味である。まことに儀礼的、形式的で心のこもらない歌である。確かに二人が別れることなどはないとはいうものの、「影を並べる」こともまた決してないのである。いうならば偽りの歌である。
 この二つの歌は、源氏物語のこの場面にあるからこそ面白のであって、歌としては全く魅力はない。そこで作者はこう言う。
 『あいだちなき御ことどもや』
 「あいだちなし」とは、「無愛想だ つれない」という意味で、ろくでもなく面白味のないということだ。この場合の「あいだちな」いのは、二人のやり取りのことを言っているのだろうが、歌もおよそ無愛想な面白味のないもので、新古今集にも百人一首にも決して採用さることはないだろう。

 この夜、花散里は、源氏に自分の床を譲って几帳を隔てて寝ることになる。一緒に寝るなどとは思いもしない仲になっているのだ。もちろんその面での愛情こそなくなってはいるものの、源氏は花散里の人柄をこよなく愛していて、難しいことをも彼女にあれこれ任せるのであるが。この歌は二人が打ち解けて詠み合った戯れのもので、真剣なもの、あはれ深いものではない。
 しかし真剣な場面であってもさして優れた歌はないというのが源氏物語である。しかしそんな歌が物語に見事にフィットしているのである。やはり紫式部は物語作者である。


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