源氏物語

源氏物語たより23

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  木曽殿最期のあわれ  源氏物語たより23

 例の『風流な平家物語』という文句に迷わされて平家物語を読みだしたら、あっという間に、十の巻の『維盛入水』にまで来てしまった。しかし、どこまで読んでも平家物語に風流はない。「頸かいたの、腹かき切ったの」の修羅の世界ばかりである。あえて言えば平家物語は、あわれでなく『あっぱれ』の世界である。


 ここまで読んできて異彩を放っていたのが「木曽最期」である。誰もがよく知っている場面であるが、改めて原文で読んでみると、感動はひとしおである。さしもの風雲児・木曽義仲も、琵琶湖に近い粟田の深田にのめり込んで最期を遂げる。ここも修羅の世界には違いないが、なにか他の修羅場面とは趣を異にしている。

 後白河法皇を鳥羽殿に押し込めたり、京の町中でさんざんの狼藉を働いたりで、世の憎しみをかい、平家追討の身が、逆に自らが追討される身となってしまう。京の六条河原などで敵に討ち破られ、さんざんな目をして北国に落ちていこうとする。しかし気になるのは、乳母子で義仲第一の家来・今井四郎兼平の行方である。そこで兼平を求めて勢田に向かった。
 兼平は、源義経の進軍を防ごうと八百騎をもって勢田(瀬田)の入り口を防いでいたが、多勢に無勢、わずか五十騎となって都へととってかえす。彼もまた主君の身を案じたのだ。なんと、大津打出の浜で木曽殿と行きあいことができたではないか。
 木曽殿、今井の手を取って、
 『(六条河原で死ぬ状況だったが、)なんぢがゆくえの恋しさに多くの敵の中を駆けわたってここまで逃れたる也』
 兼平も
 『兼平も勢田で討ち死につかうまつるべう候ども、御行方のおぼつかなさに、ここまでまいって候』

 兼平が持っていた旗を掲げると、処々から味方が集まってきて、その勢三百騎になった。この時の義仲の出で立ちは、「赤地の錦の直垂に、唐綾おどしの鎧着て、くわがたうったる甲の緒しめ、・・きこゆる木曽の鬼葦毛という馬に黄覆輪の鞍を置いて・・」という勇ましさである。
 しかし相手は五千騎、三千騎の兵を次々に繰り出してくる。義仲の兵は、次々倒れ、そして落ちていって、ついに残るは
五騎。例の巴もこの中に残っていたが、「女がいつまでも付いていては」という義仲の説得に、嫌々ここを落ちていく。そして、ついに兼平とたったの二人だけになってしまった。義仲は言う。
 『日頃はなにともおぼえぬ兜が、けふは重うなったるぞ』
 兼平これを聞いて、いろいろ慰めなだめるが、義仲はさらに言う。
 『(義仲、宮こにて命落とすべきだったが、これまで来たのは)なんじと一所に死なんと思うため也。ところどころで打たれんよりは、ひとところでこそ打ち死にもせめ』
 兼平、またさらになだめて言う。
 『最後の時、不覚しつれば長き疵にて候なり・・いふかひなき人の郎党に組み落とされさせ給ては(口惜しい。あの松原で自害召され)』
 やんぬるかな、義仲、粟津の松原へと向かったが、時は冬の日没の頃、思いがけなく深田に馬を乗り入れてしまって、動くに動けなくなって、思わず、
 『今井が行方のおぼつかなさに、ふりあふぎ給へる内甲を、三浦為久、おっかかって、よっぴて、ひやうふつと射たる。痛手なれば、まっこうを馬の頭に当ててうつぶし給ふ』
 これが義仲の最期であった。今はせん方無しと、今井四郎兼平も、
 『太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、つらぬかってぞうせにける』

 思わず長い引用になってしまった。すっかり木曽殿に酔ってしまったようだ。
 大津の膳所に義仲寺という寺がある。もちろん木曽義仲の墓所である。この寺に芭蕉の墓が、義仲の墓と並んで建っている。さらに芭蕉の句碑もある。それがかの有名な辞世の句である。
 『旅に病んで夢は枯野をかけめぐる。』
 芭蕉には、有名な故人をいたく慕う癖がある。『奥の細道』の中でも、平泉では義経を偲んで『夏草や兵どもが夢の跡』と涙を流し、小松では白髪の老武者・斉藤別当実盛を偲んで『むざんやな甲の下のきりぎりす』と詠っている。
 中でも、義仲の生きざまには特別の感情を抱いていたようで、墓は義仲寺に葬ってほしいと遺言しているほどである。義仲の生きざまの何が彼を引き付けたのであろうか。『幻住庵の記』に次の一文がある。
 『労して功むなしく』
 芭蕉は46歳(今なら66歳)の高齢を押して、前途三千里の旅に出た。それは死と隣り合わせの無謀な旅である。しかも“功”あろうなど思いもかけられない。お供の曾良は、山中温泉で発病し、伊勢に向けて先立ってしまった。「同行二人」と思っていたのに、そのお供さえダウンしてしまったのだ。
 『今日よりは書付け消さん笠の露』(笠に書き付けた“同行二人”の文字を今日をもって消さなければ)
 過酷な旅はまだ続くが、いよいよ一人旅になってしまった。

 義仲も、木曽の田舎から何の前途(目標、計画)もなく、京の都に躍り出てきて、大暴れし、あっという間にその生を閉じた。死をいとわぬその潔さは、無謀な俳諧の道に迷い出た自分自身の姿を映しだすものとして、芭蕉の心を捉えたのではなかろうか。ともに死をいとわず、功むなしい『枯れ野』に身をほうらかしたという点で肝胆相照らすものがあったのだ。

 それにしても、義仲の生死は、はたして「むなしい」ものであったろうか。私は、彼ほど価値ある一生を送った者もないのではなかろうかと思っている。
 兼平は、義仲の乳母子である。つまり同い年ということである。最後の五騎には、巴も残っていた。彼女は兼平の姉であり、樋口兼平も兼平の兄。おそらく彼らは子供の頃から、追いかけっこをしたり剣術ごっこをしたりして、木曽の山中を飛び回っていたはずである。特に兼平は、乳母子。同い年の気安さもある。常に行動を共にし、兄弟以上に馴れ親しんでいたはずだ。その二人が、時と場を同じくして、死ぬことができたのだ。確かに三浦の郎党に頸をかかれるという『疵』は残したとしても、「なんじと一所に死なんと思う」の願いは、見事に叶えられた。これほど理想的な死を、他の誰がなしえたであろうか。
 義仲寺には、もう一つ芭蕉にかかわる句碑がある。
 『義仲と背中合わせの寒さかな』
 芭蕉の門人の句で、芭蕉と義仲の墓が隣り合って並んでいる光景を詠ったものである。自分(芭蕉)の生きざまと同じような生き方をした義仲の墓の隣にいられることは、何と幸せなことであろうか。それはあたかも兼平と義仲が一所に粟田の地に死んだ幸せと同じで、まさに“同行二人”である。
 この句の「寒さかな」の意がもうひとつ判然としないが、門人がこの歌を詠った日は、義仲が死んだ日と同じように、真冬の寒さだったのだろう。しかし、どんなに寒くても、生き方を同じくした者同士が隣にいるということは、なんと安らかで温かいことであろうか。

 ところで、源氏物語にも死の場面は多い。しかし、平家物語とは次元の全く異なる死に様である。妻は、
 「平家物語って、嫌ね、みんな死んじゃうんだもの」
と言う。確かにみなすさまじい死に方で、その意味では「もう結構!」と思う場面も多い。
 源氏物語でも、桐壷更衣の死、葵上の死、藤壺の死、紫上の死・・しかし、それらの死は平家物語と違って、いずれも情緒纏綿(てんめん)たるもので、もののあわれは死別をもって極致とするさまが、美しくも悲しく描かれている。たとえば、桐壺更衣が死に臨んで詠った歌が哀しい。
 『かぎりとて別るる道の悲しきに いかまほしきは命なりけり』
 (人の定めですから、死の道を行くのは仕方ありません。けれども、私の行きたい道は、生きるという命の道なのでございます。)
 愛する人・いとしい子を置いて死の道を行くことほど悲しいことはない。もっともっと生きたいと思うのが人としての情である。
 義仲は、もののふとしての死ではなく、ごく平凡な一介の人間として、死んでいった。
 『日ごろはなにともおぼえぬ兜が、今日は重うなったるぞや』
の言葉が悲しい。日頃から信頼し合い親しみあってきた兼平に、ふっと甘えて、真情を吐露したのだ。もののふから、たおやめに移った瞬間である。その意味で源氏物語の世界にひどく近づいている。それが故に、木曽最期の段が、平家物語の他の場面とは一風変わって、感動を呼ぶのであろう。
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