源氏物語

源氏物語たより416

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   しょせんこの世は  源氏物語たより416

 最近は妙な事件が頻発していて面白い。福井大学の准教授ともあろうお方が、うら若き女性(教え子)を殺害したとか、国会議員さんともあろうお方が路上でキスしたとかしないとか、はたまたホワイトデーにお返しのチョコレートをくれなかったという理由で夫の首を絞めたとか。これらのニュースを聞いていると
 「しょせんこの世は男と女」
という感慨を強くする。
 「源氏物語は、男と女のことばかりで面白くない、光源氏の好色ごとばかりが並んでいてどうも好きになれない」という人が多いと聞く。しかし、しょせんこの世は男と女ではないのか。光源氏はそれをやや派手に典型化してみせただけで、ごく当たり前の人間の本然の姿を描いたものなのに、と言いたくなる。

 以前、『宇津保物語』は冗長すぎて興味が続かないという文章を書いたことがある。確かに冗長で煩雑で同じことの繰り返しが多く、さしたる筋もないし面白みに欠けることに間違いはない。
 あの文章で、「あて宮」に言い寄る男が、十人も十五人も登場することを冗長な例とした。「あて宮」というのは宇津保物語の主人公の一人で、とにかく美しいのである。彼女は、左大将(後の右大臣)の九番目の娘で、その人となりは次のとおりまことに優れている。

 かたち(容貌)は清らで、心はらうらうじく、今めきたる御心ばへである。  
 そしてものの心をおぼし知る(人情を心得ている)女性でもある。
 丈は五尺に少し足らぬほどで、いみじく姿をかしげである。
 髪は黒紫に照り輝き、生えるたる末まで一筋のこらずそろって長い。
 そのうえ琴に達者で、響き高くおもしろく弾く

ときている。これほどの女性であるから、多くの男が彼女に思いを寄せるのは当然なのだが、それにしても随分多士済々の男どもが登場しては、彼女に言い寄ったものである。さてどんな男がいたか。
 まず一番に驚くのは、同腹の兄が、あて宮に恋をすることである。現実にないことではなかろうが、それにしても同腹の兄妹の恋は禁断中の禁断である。彼は恋の成就しないことをはかなんで自らの命を絶ってしまう。
 さらに60歳(現代なら80歳)の老人が求婚する、親と子で同じあて宮に懸想する、出家したはずの男が狂い出す、などまさに恋の無法地帯である。
 まだいる、いる。吝嗇(りんしょく)で財産をためた男が「あて宮を嫁に」と思うやその財産を湯水のごとく使いはたす。また与太者を集めて、どさくさ紛れにあて宮を盗み出したのはいいのだが、それは別の女であった、などといった痴愚な男まで現れる。
 そして先のあて宮の兄のように、思いかなわず自殺してしまったり、出家してしまったり、狂ってしまったりする男も出る始末。結局あて宮は東宮に入内してしまうのだから、ほかの連中はみな当て馬に過ぎなかった、というハチャメチャぶりである。早く入内を表明していれば、自殺したり出家したり狂ったりする被害者を出さずに済んだのにと思う。
 『竹取物語』もこれと同じ形で、これを「求婚譚」という。これが宇津保物語の重要なテーマの一つなのだが、それにしてもあきれるほど多くの男を登場させたものだ。竹取物語は五人(プラス帝)だけである。

 しかし、考えてみると、源氏物語もこれと同じことで、男と女を入れ替えただけなのではなかろうか。つまり源氏物語は光源氏を北極星にして、多くの女性が取り巻いているのに対して、宇津保物語は、あて宮という女性を北極星にして、大勢の男が蝟集(いしゅう)した違いに過ぎないということである。
 そのいずれもが恋の様々な姿(あるいはあり方)を表したものである。そしてまた、いずれもが恋は手段を択ばないし、結果がどうなるのかも考えない無謀さが描かれている。いわゆる恋は盲目であるということである。とにかく恋は一寸先が見えないのである。
 冒頭の三つの最近の事件も、千年昔の恋と同じパターンをたどっている。しょせんこの世は女と男だからである。

 ただ、宇津保物語には、恋の様々な姿を映し出し、そこに人間の姿を洞察しようなどという深い意図があったとはとても思えない。単に面白い男を登場させたにすぎない。残念ながら、それが冗長になってしまって読者の興味を削ぐもとになってしまった。
 源氏物語には明らかにさまざまな恋の姿に「あはれ」を見ようとし、それをとことん追求しようとする意図がある。その紫式部の強い意図が、「この恋の行方はどうなるのだろう」という、読者の心を引き止めてやまない面白さを生み出しているのだ。

 この世はもちろん男、女の関係だけではない。親と子の関係、友達関係、職場の同僚、あるいは地域の人間関係などさまざまである。そういう関係がまたいろいろな問題を起こし、事件を起こしはする。
 しかし、恋ほど、年齢にも地位・身分にも財産にも、また美醜にも能力にもかかわらず、華やかな問題や事件を生み出すものはない。それは神代の時代から変わらない。なぜなら、
 『わが身は、成り成りて成り余れる処、一処あり。故、このわが身の成り余れる処をもちて、汝が身の成り合はざる処に刺し塞(ふさ)ぎて、国土を生み成さむと思ふ。生むこと如何に』
だからである。
 我々がこの世に生きている醍醐味は、やはり「女(男)あってのもの」から生み出される千変万化のドラマを見ることができることではなかろうか。明日の新聞の三面記事が待たれるのはそのためである。




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