源氏物語

源氏物語たより417

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   源氏物語の自然   源氏物語たより417

 源氏物語に描かれる自然は、自然そのものを賛美したり堪能したりするためのものではない。登場人物の心情に即した自然を切り取ってくるのである。以前
 「源氏物語の自然は意外に貧困である」
という文章を書いたことがあるが、それはこの物語が自然を描くことを目的とすることは少ないからである。花も鳥も雨も、みな登場人物の心にかかわってその役を果たしているのである。
 この点、枕草子などとは根本的に差異がある。枕草子の第一段を見ればこのことは歴然と理解できることである。春の曙や夏の夜の雨、あるいは秋の夕暮にねぐらに帰る烏や冬の朝の霜などの情趣の深さを、清少納言はストレートに賛美し、自然美そのものに酔っている。枕草子の例を一つだけ挙げておこう。223段にこうある。  
 『五月ばかりなどに山里に歩く、いとをかし。草葉も水もいとあをく見えわたりたるに、上はつれなくて(水がないようなのに見えて)草生ひ茂りたるを、ながながとただざまに(まっすぐ)行けば、下はえならざりける(何とも言えずきれいな)水の、深くはあらねど、人などの歩むに、はしり上がりたる、いとをかし』
 まさに清少納言が目にしたままの自然美の謳歌である。五月の山里を牛車で行く時、草が生い茂ったところを従者が歩くと、そんなにきれいな水があろうとも思えなかったのに、歩くにつれてその水が跳ね上がる様子が何とも情趣豊かである、と素直に喜んでいるだけで、それ以外の何の思惑もここにはない。あたかも彼女の歓声がこちらに届いてくるよう文章である。もちろん枕草子の自然描写すべてがそうだというわけではないが、概ね、月も星も雨も露も雪も、みな彼女の賛嘆の対象として登場してくる。
 ところが、源氏物語はそうではない。自然はほとんどが人事との兼ね合いで取り上げられる。「露」といえば、「涙」を象徴するものであったり、また「はかなさ」を表すものであったりする。「月」も、月そのものとして描かれることは少なく、どの月も何らかの意味を持った月である。源氏物語では枕草子のように自然そのものを賛美するようなことはない。自然を利用して人の心のさまを表現するのである。つまり自然と人事は常に一体化しているということである。

 それではいくつかの場面を見て行ってみよう。まず『葵』の巻。
 光源氏が、葵上の喪に服している時に、突然風が吹いてくるや、時雨がさーっと降ってきた。その様子がこう記されている。
 『風荒らかに吹き、時雨さとしたるほど、涙を争う心地して、「雨となり雲となりにけむ。今は知らず」とうち一人ごちて(独り言を言って)、頬杖つき給へる御さま』
 この場合も、荒く吹いてきた風のさまや突然降ってきた時雨の情趣を言いたいのではない。すべては彼が妻を亡くした悲しみに涙もろくなっている心情を象徴する媒体としてあるのである。特にこの時雨は、煙となって空に昇って雲となった葵上が、今、源氏のもとに降(お)りてきたその雨なのである。極端に言えば、時雨は降っていなくてもいいのだし風も吹いていなくてもいいのである。源氏の悲しみの心情を表す形象は、風でなくても時雨でなくてもよかったのだ。ただ、今の源氏の心情を表すには時雨が最もふさわしかったということである。

 次に『夕霧』の巻を見てみよう。まめ人間の夕霧は、落葉宮に激しい恋心を抱く。ところが、宮は彼の求愛を頑なに拒否する。思い余った夕霧は、ある夜、強引に彼女と関係を持とうとして、一夜を明かしてしまう。この時は契るまでには至らなかったのだが、物の怪に重く患っていた宮の母・御息所の耳に入ってしまう。結局このことが引き金になって、御息所は亡くなってしまう。今まででさえ心を開こうとしなかった落葉宮は、さらに心を閉ざし、夕霧に逢うことさえ肯んじなくなってしまった。
 葬儀の後、母を忍んで小野(比叡山の麓)にとどまっている宮を、夕霧が訪ねる。もちろん宮は姿も見せない。彼は、仕方なく簀子のところで、周囲の景色を眺めて悄然としているしかなかった。
 この時、彼がとらえた小野の自然が次のように描かれる。この場面は美文としても有名なので、少々長いがあえてそのまま写しておこう。
 『九月十余日、野山の気色は深く見知らぬ人だに、ただにやはおぼゆる。山風に堪えぬ木々の梢も峰の葛葉も、心慌ただしう争ひ散る紛れに・・木枯らしの吹きはらひたるに、鹿はただ真垣のもとにただずみつつ、山田の引板にも驚かず、色濃き稲どもの中に混じりて、うち鳴くも、憂へ顔なり。滝の声はいとどもの思ふ人を驚かし顔に、耳かしがましうとどろき響く。草むらの虫のみぞ、よりどころなげに鳴き弱りて、枯れたる草の下より、竜胆の我ひとり心長う這い出でて、露けく見ゆるなど、みな例のこのころのことなれど、折からところからにや、いと堪へがたきほどのもの悲しさなり』
 彼の目や耳にさまざまな自然が入ってくる。山風の音、木枯らし、滝の音、鹿の鳴き声、引き板(鹿威し)の音、虫の声、みな彼の耳がとらえたものである。木々の梢、峰の葛葉、色濃き稲、枯れたる草、竜胆、これらは彼の目がとらえたものである。
 そのいずれもが、恋が思うに任せない彼のやるせなさの形象なのである。ものの情趣を「深く知らぬ」ただの人であれば、おそらくこれら小野の自然を「あはれ(しみじみとした情感豊かなもの)」に感じるだけであろうが、夕霧にはひたすら悲しく見え聞こえるのである。

 「紅葉賀」は、紅葉の美しさを鑑賞する宴ではない。紅葉は、光源氏という才能豊かな男の「錦」の引き立て役である。また「花宴」は、左近の桜を賞味する宴ではない。やはり光源氏の活躍の舞台となる種なのである。また、彼の華やかな恋(朧月夜との)を演出する引き金になっているのである。
 『帚木』の巻に、源氏が空蝉と強引に関係を結んでしまう場面がある。その翌朝、彼は有明の月を
 「光は収まっているものの、その影はさやかに見えている。月がこうこうと輝いて見えるよりもかえって趣が深いものだ」
と万感の思いで眺めながら、こう思う。
 『何心もなき空の気色も、ただ見る人から、艶にも凄くも見ゆるなりけり』
 月も空も、それ自体には何の意味もない。無心である。問題なのはそれを見る人の心の状態である。何心もないはずの月が、その時の人の心の状態によって、優艶にもぞっとするようにも見えてくるものなのである。
 夕霧が見聞きしたもの、たとえば鹿は別に憂え顔で鳴いているわけではないし、虫も弱々しく鳴いているわけでもない、また竜胆が露っぽく咲いているわけではない。みな夕顔の心象風景なのである。
 『古今集』も多くは自然を借りて作者の心を詠っている。 小野小町は
 『花の色はうつりにけりな いたづらにわが身世にふるながめせし間に』
と、長雨にもの思いにふけっているうちに、花の色が移ろうように、自らの容色も衰えてしまったものと嘆いていて、桜そのものを歌ってはいない。紀貫之は
 『秋の菊 にほふかぎりはかざしてむ 花より先と知らぬわが身を』
と、かざしにすれば長寿になるという菊をかざしに刺しながら、貫之は自らの命を見つめている。

 現代人にはこのような感覚はすっかり無くなってしまった。自然は自然のままに「美しい!」と感じ、「きれい!」と感じるばかりである。桜を眺めながら自己の命を見ている人はいないし、彼岸花を見れば、ひたすら感嘆するだけで、彼岸花だからと言ってあの世を感じ取る人はいない。花見る人はおおむね楽しそうに浮かれている
 最後に正岡子規の歌を二つ挙げておこう。
 『くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽の針 やはらかに 春雨の降る』
 『瓶にさす藤の花ぶさみぢかければ 畳の上にとどかざりけり』
 さて平安人はこの歌をどう見るであろうか。


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