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源氏物語

源氏物語たより428

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   「うるはし」き末摘花  源氏物語たより428

 『蓬生』の巻では、末摘花の固体な姿が紫式部によって完膚なきまでに暴き出される。『末摘花』の巻でも、これでもかという程に彼女の人となりを暴き出していたが、それは容姿などに関する生得の面で、彼女にはいかんともしがたいものであった。にもかかわらず紫式部は、それを嫌気がさすほどに暴き出していた。紫式部の品性を疑わざるを得ないほどだったのだが、この巻では、同じ末摘花の「あさまさ」い面を描きながら、『末摘花』の巻ほどには嫌悪感を催すことはない。

 光源氏が須磨に流れていってからというもの、生活の糧のなくなった彼女の邸は荒れるにまかされてしまった。その貧窮のさまを見た金余りの受領どもは、自らの屋敷の庭造りのために、古色蒼然として年季の入った庭木を、つてを求めては「譲ってくれ」と申し入れてくる。女房たちも
 「こんな恐ろしいところに住まないで、庭木も手放し別のところに移り住みましょう、これでは残っている者が堪えられません」
と盛んに売却を勧める。しかし、彼女は
 「父宮の面影が残っているこここそ、わが住まいであり、それが私の生きがいなのだ」
と言って頑として手放そうとはしない。
 また、骨董趣味の連中が、彼女の父・常陸宮がその道の名工を招いて作らせたものと聞き伝え、大層古体で「うるはしい」調度を「売れ!売れ!」とせがんでくる。彼らはこの屋敷の貧窮の様を見て、どうせ売るだろうと侮って言い寄ってくるのだ。
 例の女房たちも、またまた「そうなさるのが世の常」と急かす。女房たちは、今日・明日のあさましいほどの貧窮を少しでもまっとうなものにしようと思って勧めているのだが、末摘花はそれを厳しくいさめて、こう言う。
 「父宮が私のためにとわざわざ残してくれたものである。それをどうして軽々しい身分の者の家の飾りになどできようか.。父宮の本意に背くことなどできるはずがない」

 そんなことで屋敷はますます荒れ放題になっていく。野分が吹くと、廊下などは倒れ伏し、下屋の建物は骨だけになる。盗人がこの屋敷の前を通っても振り向きもしない。塀は崩れて牧童たちの通り道になるという有様で、野らはついに藪となってしまった。
 ただ、寝殿の中だけはありしのままだが、誰も掃除する人とてない。末摘花は
 『塵は積もれど、まぎるることなきうるわしき御住まひにて明かし暮らし給ふ』
のである。

 彼女の生活状況も常軌を逸している。つれづれなる時やこんなに貧窮な生活の中では、古歌に親しんだり、物語を読んだりすれば少しは心和むというのに、そんなことには一切関心を示さず、疎い限り。また親しい人と消息のやり取りでもすれば気もまぎれるというのに、全然他と睦み合うことをしない。それはどうやら父宮の教訓に固執しているからのようである。父宮は
 『世の中をつつましきもの』
と教えていた。「この世は怖いところだぞ、目立ってはいけない、遠慮がちにつつましく生きることが肝要なのです」とでも言っていたのだろう。
 で、どうにもならないほどのもの思いに沈んでいる時だけは、古ぼけた厨子から「竹取物語」などを引き出して見ることはある、といった状況なのである。
 もちろん、当時流行していた「読経」とか「勤行」とかなどには、とてもとてもなじむことなどしない。流行を追うことなどは、彼女にとっては恥ずかしい行為そのものなのだ。だから数珠さえ持とうとしない。
 彼女のすることと言ったら、父の教えを厳格に守ること、「はやりか」なことなどはもってのほか。とにかく変化することを頑なに拒み、あるがままこそ彼女の生きるモットーになっているのである。
 そんな状態で過ごしているうちに、彼女が唯一頼りにしていた優れた女房である侍従さえ、末摘花の叔母にしたがって筑紫に去ろうとする。

 そうこうしているうちに源氏が許されて都に戻ってくる。しかし当然のことながら、彼は、末摘花を訪れることなどしない。そもそも彼の意識に末摘花などという女は存在しないのだから。
 そんな彼女に、叔母や侍従は筑紫下りを勧めるのだが、現状に固執する彼女がついていくはずはない。そしてひたすら源氏の訪れを待つのである。彼女は内心でこう思っている。
 『さりとも、あり経ても(月日が経てば、源氏が自分のことを)おぼし出づるついであらじやは。哀れに心深き契りをし給ひしに、わが身は憂くてかく忘られたるにこそ』
 「わが身は憂くて」とは、「自分の運勢そのものがよくなくて」ということで、「源氏さまが私を忘れているのは、私の運勢は拙いためだ」と考えているのである。だから、いくらなんでも私のことを思い出さないはずはない、私のことを聞きつければ
 『必ず訪ひ出で給ひてん』
と頑なに源氏の訪れに望みを託す。源氏には、ひとかけらの愛情どころか意識さえないことに思い及ばないのである。そんなわけで屋敷は荒れるにまかされてしまう。それでも
 『同じさまにて、念じ過ぐし給ふ』
のだ。じっと我慢して源氏を待つというのである。

 このさほど長くはない末摘花描写の中に、なんと四回も
 『うるはし』
という言葉が出てくる。それは「うるはし」が彼女のキャッチコピーであるからだ。「うるはし」とは本来は「きちんと整っている美しさ」といことで、良い意味に使われる言葉である。例えばヤマトタケルの絶唱歌
 『大和は国のまほろば ただなずく青垣 山籠れる大和しうるわし』
なども、大和という国がどれほど「整然として美しく優れたところであるか」という意味で使われている。ところが末摘花の場合には、悪い意味に使われる。つまり、「整いすぎていて融通が利かない」という意味に変化してしまうのだ。とにかく現状にこだわってそれから抜け出そうとせず、変化することを頑なに拒否するのが末摘花なのである。それは彼女の信念から出でたものではない。単に現況から抜け出すことができないだけで、変わる能力がないのだ。
 叔母や侍従の筑紫下向の勧めに乗れないのも、現況を変える能力がないからだ。また源氏をひたすら待っているのは、彼女の強い意志からというわけではない。そこから動くことができないだけなのだ。現に彼女は源氏の訪れがないことに
 『今は限りなりけり』
と自覚をし、あきらめの境地でいるのだ。にもかかわらず現状を変えようとしないのは、その能力が欠如しているからだ。
 彼女を形容するもう一つの言葉「古体」も、こちこちに古くなったままの姿を表している。いわばシーラカンスのようなものといえばよい。

 源氏物語の中心主題は、私は、本居宣長が言うとおり
 「もののあはれ」
であると思っている。「もののあはれ」とは、多くはもの・ことが変化した時に覚える「しみじみとした感情・情趣」である。末摘花は変化することができない、いやその能力を持たない人物である。つまり、彼女は源氏物語の主題の対極に位置する存在なのである。「反面教師」と言ってもいいかもしれなない。紫式部は、末摘花をいささか過度に、執拗なまでにコケティッシュに描くことによって、「もののあはれ」の本質を訴えようとしているのである。


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