源氏物語

源氏物語たより25

 ←源氏物語たより24 →源氏物語たより26
  人為と自然のシンフォニー 『野分の章』 源氏物語とはず語り25

 野分の巻に
 『胸のつぶつぶと鳴る心地する』
という表現がある。“つぶつぶ”とは、心臓がどきどきと鼓動するさまであるが、さてだれの胸が、なぜ鳴るのだろうか。



 それは、光源氏の子・夕霧の心臓の高鳴りである。なぜ高鳴ったのかといえば、源氏の妻であり、夕霧には義母に当たる紫上を初めて見たからである。

 その日は、誠に激しい野分の日であった。野分とは、野を分けて激しく吹きすさぶ風のこと、つまり台風のことであるが、この日の野分は、尋常一様なものではなかった。
 『例の年よりもおどろおどろしく・・暮れゆくままに、物も見えず吹き迷はして、いとむくつけき(気味悪い)』
ほどで、前栽の草木が倒れ伏すのはもとより、大きな木の枝は折れる、馬場の建物や釣り殿は危うくなる、離れの建物は倒れ、檜皮の屋根ははがれ、瓦はみな落ち、立蔀や透垣は壊れるという凄まじい状況であった。
 まめでうるわしい(真面目で几帳面で礼儀正しい)男である夕霧は、野分によって、建物が倒れたり、屋敷が荒れたりしていないだろうか、あるいは、女君たちや祖母がこの激しい風に怯えていないだろうか、と、六条院や左大臣家を見舞うために、慌ただしく駆け回る。

 夕霧は、まず、源氏と紫上の住む南の殿を見舞った。源氏は、明石姫君のところに行っている。夕霧が、渡殿(渡り廊下)の小障子の上から、寝殿の方を見ると、妻戸(開き戸)が開いている。その隙から何心なく見入っていると、大勢の女房たちの姿が見える。屏風も、風が激しく吹いたので押したたんで寄せられている。   
 『見通しあらわなる廂(ひさし)の御座(おまし 紫上のいるところ)にゐ給へる人、ものに紛るべくもあらず、気高くきよらに、さとにほふ心地して、春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す。・・愛嬌はにほひ散りて、またなくめづらしき人の御さまなり』
 廂の間(簀子と母屋の間の部屋)の御座にいられるあの気高く清らなる人は、紛れもない、義母の紫上である。夕霧が、紫上を見るのはもちろん初めてのことである。義母だというのに、なぜ“見るのはもちろん初めて”などと言うのかといえば、源氏が、決して紫上を夕霧に見せようとしなかったからである。それに、当時は、女の人の顔は、夫以外が見ることはめったになかったのは事実ではあるが、それにしても源氏の場合は特別防備が厳重であった。というのは、源氏自身、かつて桐壺帝の妃である藤壺宮に相まみえ、懸想し、不義を働いたことがあるからで、息子の夕顔が同じ過ちを犯すのではないかと恐れていたのだ。
 『大臣(源氏)の、いとどけ遠くはるかにもてなし給へるは、かく、見る人、ただにはえ思ふまじき御ありさまを、至り深き御心にて、もしもかかることもやと思すなりけり』
 つまり、「源氏が、私から紫上を遠ざけていたのは、紫上があまりにも美しく、見た者はただでは済まなく思うだろう、そして、もしものことがあってはならないからと、慎重を期して防備を固めていたのだ」、ということである。

 しかし、野分は、あるべからざる事態を現出させてしまった。夕霧は思う。
 『げに風こそは、巌も吹き上げつべきものなりけれ。・・めづらしう嬉しき目を見るかな』
 嵐は、妻戸を開け放たせ、御簾も巻き揚げ、屏風も畳ませてしまうほどの凄さである。そのおかげで、見たこともない嬉しい情景を目にすることができた、というのである。
 しかし、紫上は、「めづらしい、うれしい」などという程度で済まされる女性ではなかった。その印象はあまりにも鮮烈でありすぎた。まめでうるわしい夕顔の心をすっかり狂わせてしまったのである。『春の曙の霞の間より咲き乱れる樺桜』の姿が、彼の脳裏から離れなくなってしまったのだ。

 ところで、『春の霞の間の樺桜』とは、紫上のうるわしき様を表しているのだが、考えてみると、はたしてどういう姿なのか、さっぱりイメージとして浮かんでこない。紫式部は人を例えるに、よくこのように自然の風物をもって表現する。この後、野分の見舞いに訪れる女君たちの姿も同じように描かれている。まず玉鬘は
 『八重山吹の咲き乱れたる盛りに、露のかかりたる夕映え』
と表現されている。明石の姫君はといえば
 『藤の花の,木高き木より咲きかかりて、風になびきたるにほひ』
と表現されている。いずれもそれぞれの女性たちの特徴を言いえて“妙”なのではあるが、さて、ではその姿はどうなの、となると具体的にはさっぱり分からない。
 でも何かその雰囲気が伝わらないでもない。それに、紫式部が自然をかくも大切にし、愛してやまなかった気持ちはよく理解できるし、それが源氏物語を彩り豊かなものにさせていることは確かなのだ。

 この後、夕霧は、あちらの邸、こちらの殿舎と渡り歩くが、紫上の姿が心から離れない。道すがらも、激しく入り揉みする風であるが、
 『風のさきにあくがれ歩き給ふもあわれなり』
という始末である。「あくがれ」とは、魂が肉体から離れ出る状態で、ふらふらと浮かれ出ることである。また、
 『中将(夕霧)、夜もすがら荒き風の音にも、すずろにものあわれなり(無性に切なく悲しい)。・・ありつる面影の忘られぬ』
状態で、嵐の夜をさ迷い歩く。そして、今まで恋しくてたまらず、ぜひ結婚したいと思っていた雲居雁(頭中将の娘)のことなど、すっかり念頭から消えてしまって
 『さやうならむ人(紫上)をこそ、同じくは見て(結婚して)明し暮らさめ』
などと、不遜なことを想像する。これもひとえに野分のなせる業である。

 翌日の明け方、さしもの野分も収まってきて、日もわずかにさし出でてくる。
 西の殿(秋好中宮)に行くと、前栽に童を下して、虫かごに露を入れて世話をしたり、撫子の折れたのを取って来させたりしている。そこに、まだわずかに残っている追い風に乗って、紫苑の花の香が送られてくる。ようやく嵐も、夕霧の心の嵐も収まってきたようだ。
 再び、南の殿に戻った。
ちょうど源氏が直衣を着替えるために、御簾を上げ、部屋に入ろうとした。すると、御簾の向こうの几帳の陰に、わずかに女の袖口が見えた。
 「あ、紫上だ!」
と見る間に
 『胸つぶつぶと鳴る心地する』
状態に逆戻り。彼の嵐は、まだ収まっていなかったようである。
 今度は、北の殿の明石の君のところに行った。ここでも童を前栽に下ろし、竜胆や朝顔の倒れ伏しているのを引き起こさせている。そこに明石の君の弾く筝の琴の音が流れてくる。この頃から、ようやく彼は平静を取り戻したのだろうか。玉鬘と源氏が戯れる様子や、花散里(源氏の妻の一人)の姿などを、客観的に見るようになっている。ああ、やっと嵐は去った。
 最期に、夕霧は、雲居雁のことを思い出して、消息をする。
 『風さわぎむら雲まがう夕べにも忘るる間なく忘られぬ君』
 この歌の中の“君”に、紫上が潜んでいないか、私にはまだ心配なのであるが。

 私は、『野分』の章を読むたびに、いつも、ベートーベンの『田園』のメロデイーを思い浮べる。ベートーベンは、嵐の様を見事に楽譜に収め、紫式部は、人の心を絡ませながら格調高い物語に仕立てた。源氏物語の中でも最高の好短編であると思う。 
 もう一つ、自然と人事を見事に織り交ぜた章がある。『夕霧』の巻である。
 親友・柏木の死で、残されたその妻・落葉宮に懸想する夕霧は、小野にながめ暮らしている落葉宮に狂ったように迫る。その時の自然描写は、夕霧の心を映して見事な交響曲を奏でて美しい。

 『九月十余日、野山の景色は、深く見知らぬ人だにただにやはおぼゆる。山風にたへぬ木々の梢も、峯の葛葉も心あわただしうあらそひて散る紛れに、尊き読経の声かすかに、念仏などの声ばかりして、人のけはひいと少なう、木枯らしの吹きはらひたるに、鹿はただまがきのもとにただずみつつ、山田の引き板にも驚かず、色濃き稲どもの中に混じりてうち鳴くも憂へ顔なり。滝の音は、いとどもの思ふ人を驚かし顔に耳かしましうとどろき響く。草むらの虫のみぞよりどころなげに鳴き弱りて、枯れたる草の下より竜胆のわれひとりのみ心長う這ひ出でて露けく見ゆるなど、みな例の頃のことなれど、をりから所がらにや、いとたへがたきほどのもの悲しさなり』

 ただ、この巻は夕霧のまじめさ、深刻さばかりがクローズアップされ過ぎていて、『野分』の巻の明るくのびやかなイメージはない。やはり『野分』がいい。

もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 郷愁
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏物語
  • 【源氏物語たより24】へ
  • 【源氏物語たより26】へ
 

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【源氏物語たより24】へ
  • 【源氏物語たより26】へ