源氏物語

源氏物語たより436

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   自然描写の効用  源氏物語たより436

 横浜市では、「みどり税」なるものを徴収しているそうである。都市部では緑地面積が減っていくのは仕方のないことだが、できる限りそれを食い止めようというのがこの税の目的のようである。ところが五年たって「緑被率」を調べたところ、わずかではあるがこの率が減少していたという。「緑被率」とは、地上を覆う樹木などの面積比率のこと、つまり緑に覆われた地面の割合がどれだけあるかということである。
 もう一つ「緑視率」という見方もあるそうで、これは実際に人の視界に入る緑の量の割合を言うようである。国土交通省の調査によると、この「緑視率」が25パーセント以上になると、「緑が多い」と感じるようになり、この率が高まるにつれ、
 「潤い」「安らぎ」「さわやかさ」
といった心理的効果も向上する傾向が見られたそうである。(以上、神奈川新聞)
 
 この新聞の記事を見ていてふと思ったのは、源氏物語の自然描写のことである。源氏物語には自然描写がきわめて多い。それは、紫式部が、話の筋だけ、いわば人事だけを追っていたのでは物語が殺風景になってしまうので、それを避けようと計算していたからではなかろうかと思う。自然描写の場面になると、読者は意識するとしないにかかわらず、心に彩が出てきて深みや豊かさが湧いてくるものである。それは登場人物の心情を深く豊かに捉え、人物に共感するという作用につながる。いわば自然を描写することによって物語に「潤い」を持たせるということである。
 源氏物語の面白さは、筋の面白さだけではない。筋の面白さだけなら、一回読めば済んでしまうのだが、源氏物語は読むたびに新たな感覚を呼び起こされ、心がゆすられる。古今東西の人がこの物語に魅せられてきたのは、この自然描写にもあるのではなかろうか。登場人物の哀しみは、雨により露により鹿の鳴く音によって増幅され、歓びは、花や蝶や明るい空の色によって高まっていく。また思索は、宇治川の流れや長雨によってより深まっていく。

 源氏物語の「緑視率」を測って見たら面白いと思う。意外に高いのではなかろうか。そもそも巻の名も自然に由来しているものばかりである。五十四帖中、三十四帖が自然に関するものからの巻名で、その率、実に62,9%である。もちろん本文中にはそれほど多く自然が描かれているわけではないが、いずれにしても源氏物語の「緑視率」は高い。これは他の物語には見られない現象である。『落窪物語』などは、自然描写ゼロと言っても過言ではない。もちろん歌の中には自然が読み込まれているし、風の寒い冬になったとか、大雨の中を右近少将が、落窪姫のところに通うなどという描写はあるが、しかし、それは源氏物語のように人事と一体化したものではない。『宇津保物語』も大同小異である。

 『桐壷』の巻は、自然が描かれる場面は比較的に少ないのだが、それでも、靫負命婦が桐壷更衣の母を訪ねる場面などは、これは他の物語には見られない現象である。名文として名高い。それは
 『野分たちて、にはかに肌寒き夕暮れのほど』
から始まる。それではここに至るまでの物語の経過を見てみよう。
 帝による過度なまでの桐壷更衣寵愛、それに対する女御・更衣たちの陰湿ないじめ、更衣の病、玉のような皇子(光源氏)の誕生、そして更衣の死。
 まさに波乱万丈で、目まぐるしく足早に物語は展開していく。そのために読む者の緊張感は極度に高まっていく。
 ところが、急転、靫負命婦が、娘を亡くして悲しみに沈んでいる更衣の母を訪ねる場面になると、
 『野分たちて、にはかに肌寒き夕暮れのほど』
と自然が描かれ、俄然、物語の雰囲気は変わるのである。もちろん、更衣の母と命婦の哀しみの感情は高まったままであろうが、読者は、ここで「ほっ」と一息つけるのである。これをいわゆる「緑視率」の高まりによる「安らぎ」と言っていいのかもしれない。あるいは読者の心が、激しく転変してきた物語から解放されて、しっとりと「潤い」に満たされ始めると言っていいかもしれない。
 そして命婦が、更衣の母の邸に入ってみると
 『草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎にもさはらずさし入りたる』
と続いていくのである。二人による悲しみの対話の後、命婦が邸を辞去しようとする時には、
 『月は入りがたの空、清う澄み渡れるに、風いと涼しく吹きて、草むらの虫の声々、もよほし顔なるも、いとたち離れにくき草のもとなり』
と叙景される。
 もし、『桐壷』の巻が、冒頭からの破天荒な人事のみに終始していたとすれば、読者の心情も荒れ狂い高鳴ったまま、ひたすら筋の面白さだけを追い求めていくことであろう。「野分」の自然描写は物語に限りない潤いと深みを添えた。

 もう一つ、『浮舟』の巻の、匂宮と浮舟との宇治川逃避行の場面を見てみよう。
 浮舟は、既に薫の実質上の妻になっていたのだが、彼女に横恋慕する好色漢・匂宮は、薫が宇治に隠しておいた浮舟を強引に連れ出し、対岸にある屋敷で一夜を過ごそうとする。雪が残った宇治川渡りである。
 『(浮舟が)あけくれ見出だす小さき舟に乗り給ひて、さし渡り給ふほど、はるかならん岸にしも漕ぎ離れたらんやうに、心細く思へて、つとつきて(匂宮に)抱かれたるも、(宮は浮舟を)いとらうたしとおぼす。有明の月、澄み上りて、水の面も曇りなきに、(舟人が)「これなん橘の小島」と申して、御舟しばし挿し止めたるを見給へば、(その島は)大きやかなる岩のさまして、ざれたる常磐木の影しげれり』
 この逃避行は不倫中の不倫である。源氏物語には女を「抱く」という言葉はさして多くはないのだが、この逃避行には四度も匂宮が浮舟を抱くシーンが頻発している。それだけでも官能的であるのに、この夜二人は
 『かたはなるまで遊び戯れつつ暮らし給ふ』
のである。「かたはなるまで」とは、「はたから見ても見苦しいまで」ということで、二人は常軌を逸したように夜を徹して目くるめく性の歓楽に酔ったのである。
 しかし、物語全体から受ける感じは、「見苦しさ」もあられもない様もないし、人倫に背く常軌を逸した行為などと感じさせるものは一切ない。それは、先の渡河の叙景をはじめ、いたるところに張り巡らされている自然描写が、すべてを浄化してしまっているからである。夕餉の時に匂宮は屋敷の外の宇治の景色に目を注ぎ、
 『雪の降り積もれるに、わが住む方(京の方)を見やり給へれば、霞のたえだえに、梢ばかり見ゆ。山は鏡を懸けたるやうにきらきらと夕日に輝き、よべ(昨夜)分け来し道のわりなさ(ひどさ)など、あはれ多う添えて(浮舟に)語り給ふ』
のである。この後、繰り広げられる二人の嬌態は、この自然描写によって相殺されているのである。

 夕霧が、落葉宮にねちねちと迫る場面(『夕霧』の巻)も、比叡の山懐の「小野」という自然が、彼の嫌らしさを辛くも消し去っている。
 
 源氏物語は、やはり圧倒的に「緑視率」が高いと感じる。それが緊張感あふれる場面にも「ほっと」した感情を生み、危うい内容をも、和らいだ感じにさせてしまうのだ。「潤い」「安らぎ」「さわやか」な世界にいつまでもいたいのは人の情である。




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