源氏物語

源氏物語たより440

 ←源氏物語たより439 →源氏物語たより441
   比叡山の大チョンボ   源氏物語たより440

 先日、比叡山の三塔巡りをした。比叡山には、根本中堂のある「東塔」と振り分け荷物を思い起こさせる常行堂と法華堂のある「西塔」、それに修行の地として有名な「横川」とからなっている。横川は、東塔が朝廷や貴族との関係が強まり世俗化したことに満足できなかった気鋭の僧たちによって修行の地とされたところである。今でこそ開けてはいるが、当時は相当の深山幽谷の地であったはずだ。後に法然や親鸞、日蓮などがここで修行している。横川で特に有名なのが『往生要集』の著者・恵心僧都源信である。
 横川のさらに奥まったところに「恵心院」という、宝形造りの小さなお堂がある。もちろん恵心僧都が修行したゆかりの地に建てられたものである。
 この恵心院の庭に『源氏物語の横川僧都遺跡』と言う碑が建っている。人の背丈ほどもあろうか、ずいぶん立派な碑である。建立は平成22年で比較的に新しい。
 「さすがに源氏物語とゆかりの深い寺だけあって、源氏物語とのかかわりがこのように丁寧に碑文となっている」
と感心しながらさっそくカメラに収めた。今回の三塔めぐりは源氏物語の跡を偲ぶことが目的であったので、ありがたい措置と感謝する思いであった。
 ところが碑文を読んでみて驚いた。全くでたらめな内容だったのである。そこには

 紫式部の『源氏物語』には『法華経』をはじめ、比叡山が多く登場する。たとえば、「賢木」の巻では光源氏 天台座主から受戒、横川僧都により剃髪したとあり、「手習」の巻では入水した浮舟を横川の「なにがしの僧都」(恵心僧都)が助けており、「夢の浮橋」の巻では薫が毎月根本中堂に詣でて、「経、仏など供養」したとある。

とあるのだが、正しいのは、源氏物語には法華経や比叡山が多く登場することと、浮舟が横川僧都に救われたことだけである。もっとも浮舟の件も、確かに横川の僧都が助けたのではあるが、これは恵心僧都そのものではない。恵心僧都は、源氏物語に登場する「横川の僧都」のモデルではないかと言われているだけで、このままでは誤解されやすい。でもまあこれは辛くもセーフということにしておこう。
 呆れるのは、「賢木」の巻で、光源氏は横川の僧都によって剃髪したという下りである。この時、光源氏は二十三歳から二十五歳までの話なのである。この若さで剃髪(出家)するはずがないではないか。もしこの段階で出家したとすれば、源氏物語は成り立たない。紫式部も、その後の物語をどう進めていこうか、さぞかし苦慮することになって、おそらく筆を投げてしまったのではあるまいか。源氏物語は第十巻「賢木」をもってめでたく終了ということになってしまう。
 考えてみればこれは誠に異常なことなのである。なぜなら少しでも源氏物語を知っている者であったなら、こんなところで光源氏が出家するはずはないと気が付くはずだからである。何人の人がこの碑の建立にかかわったかは知らないが、少なくとも荘厳な除幕式が行われ、その式典には大勢の人が参加したはずである。その誰一人、この間違いに気づきもしなかったというのは、不可解そのものである。

 なぜ「異常」なのかを別の面からもう少し追求してみよう。光源氏は、藤壺宮が出家した後、その寂しさからか、あるいは欲求不満からか、里下がりしていた朱雀院の妃(尚侍)・朧月夜と濃厚な性の饗宴を繰り広げているのである(それがために須磨に流れていく運命になるのだが)。もし彼がここで出家していたとすれば、出家した途端に、女犯(にょぼん)の罪を犯したということになる。しかも相手は帝の寵姫なのである。日本歴史史上類例のない破戒僧ということになってしまう。
 それだけではない。光源氏は、須磨・明石に流れている最中にも明石君と契って子供まで作るやら、京に帰ってくれば前斎院の朝顔に言い寄るやら、若い玉鬘にわりない恋心をねちねち訴えるやらのやりたい放題である。そんなお坊さんがあるだろうか。もっとも坊主頭の光源氏が、朧月夜や明石君と絡んでいるさまは想像するだけでも面白いのだが。比叡山のお坊さん方で源氏物語を読んでいる人がいるとは思えないが、それにしてもこんなことにも気づかないとは、大比叡の大失態である。

 この碑文の過ちに気付いて、恵心院のある横川中堂の事務所を訪ね、すぐ指摘してみた。相手をしてくれたのは尼さんのようであったが、彼女はにべもなく
 「延暦寺の総務部に言ってくれ」
という。旅の途中ではあるしそれも面倒と、家に帰ってから電話してみた。すると「そういうことなら管理部に言ってくれ」とたらいまわし。根気も切れそうになったが、僧侶張りの忍耐力を振り絞って管理部に電話してみたところ、「武さん」という人が応対してくれた。ところがこの人もつれなく「調べておきます」と言ってこちらの電話番号を聞こうともせず電話を切ってしまわれた。
 「恵心院」などは、お山の奥の奥であるから、人もあまり行かないだろうし、まして源氏物語に関心を持っている人が行くことも少ないだろうから、そのまま放っておけばいいのだが、どうも気持が収まらない。あのままでは大比叡の面目にかかわるだろうし、もし外国から来た源氏物語に堪能な方が気づかれたら、今度は日本の恥になると思って、数日後電話をしてみた。すると若い女の人が出た。どうやら例の碑文のことについては聞き知っているような雰囲気であったが、
 「武は、今日は事務所に来ておりません。なにしろ本人がいませんので・・」
と言うだけである。まさか私からの電話を恐れて居留守ということはあるまいが、仕方なく「後日また電話します」と言って切った。

 実は「賢木」の巻で出家するのは、藤壺宮なのである。
 光源氏の執拗な求愛は、自分の身を滅ぼすだけではない、何よりも二人の間の秘密の子(後の冷泉帝)の失脚につながる空恐ろしいことである。それから逃れるためには出家するしかない。法華八講の折、藤壺宮はだれに相談することもなく、天台座主に戒を受け、叔父の横川の僧都に剃髪してもらうのである。碑文は光源氏と藤壺宮とを完璧に混同しているのだ。中途半端に源氏物語を読んだ人か又聞きした人が書いた碑文に違いない。
 もう一つの間違いは、ここに出てくる「横川の僧都」と、宇治十帖に登場し浮舟を救う横川の僧都(恵心僧都がモデルか)とは全くの別人であるということである。碑文のままだと同じ人物と取られてしまう。そもそも光源氏の子である薫(実は女三宮と柏木の秘密の子)が活躍する「夢の浮橋」の時代と、光源氏が活躍する時代とは全く違うのである。光源氏が、もし「夢の浮橋」のころまで生きていたとするならば、七十歳にはなっているだろう。
 もう一つ、碑文の間違いを指摘しておこう。「薫が毎月根本中堂に詣でて」と言う箇所である。お山とすれば薫に毎月詣でてほしいのだろうが、そうはいかない。何しろ薫は「右大将兼権大納言」なのである。大納言と言えば、閣僚のベストファイブに入り、今でいえば甘利さんか岸田さんと言ったところで、とても毎月比叡山などに登る余裕はない。もっとも場所が宇治であったら判らないが。このことに関する源氏物語の記述は
 『山におはして、例せさせ給ふやうに経・仏など供養ぜさせ給ふ』
である。ここには「毎月」とは書かれていないが、経や仏を供養するのが薫の習慣だったのだろうから、毎月ととってもさしたる過ちではないだろうが、でも少なくとも毎月比叡登山することではない。薫が、浮舟失踪の件でたまたま比叡に登り横川を訪れると
 『僧都(横川の僧都)驚きかしこまり聞こえ給ふ』
のである。何しろ時の権大納言が山に来られるなどは稀有のことであるから、横川の僧都は驚き恐縮しまくったのである。
除幕式に参列した人たちはこんな単純なことにも気付かなかったのだろうか。これもまた「驚きかしこまる」事態と言うしか言いようがない。

 光源氏は、十八歳の時に「出家」を口に出して以来、何度も何度も「出家」を考え、また人にも言っている(私の計算では十四回)。しかしついに出家することはなかった。紫上が亡くなってようやく重い腰を上げたのだが、しかし出家の場面はついに描かれることなく、彼の人生は幕を閉じてしまう。『雲隠』の巻で、彼は出家したことは間違いないのだが、紫式部はそれを描こうとしない。光源氏の死さえ描こうとしないのだ。そんな紫式部が、二十四歳の光源氏を出家させるわけがない。
 もし出家していたなら、光源氏と言う破戒坊主の色事が、紫式部の例のしゅうねき筆によって暴かれ、それはそれなりに面白かったかもしれないが、そうなると恵心院の庭にこの碑が建つということもありえなかった。

 後日、カメラに残された映像を拡大してよくよく見てみたら、碑文の最後に
 『 題字 延暦寺執行 武 覚起 書
   撰文 勧学大僧正 渡辺守順  』
とあった。これは一体どういうことであるのか。


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 郷愁
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏物語
  • 【源氏物語たより439】へ
  • 【源氏物語たより441】へ
 

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【源氏物語たより439】へ
  • 【源氏物語たより441】へ