源氏物語

源氏物語たより442

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    現実感を持たせる  源氏物語たより442

 『関屋』の巻は、光源氏と空蝉の後日譚である。空蝉は夫の伊予介に従って伊予の国に下ったり、その後常陸介となった夫に従って常陸の国に行ったりして、長年遠国に住む身となっていた。一方の源氏は、朧月夜との密会が右大臣に知られるところとなって、配流同然、須磨・明石をさすらう身になっていたので、互いに消息するすべもなく、まして会うこともなく、十年余りを過ごしてきてしまった。
 源氏は、許されて二年半ぶりに京に帰ってくる。その翌年の秋のこと、無事に帰還できたということで願はたしに石山詣でをすることにした。
 ちょうどそのころ、常陸介も任果てて京に帰ってくる。ところがなんと二つの行列が逢坂の関で鉢合わせしてしまうのである。
 『(常陸介一行が)関入る日しも、この殿(源氏)、石山に御願はたしに詣で給ひけり』
 「関」はもちろん逢坂の関のことで、「逢う」という言葉と掛けられてしばしば歌や物語に登場するいわゆる歌枕である。
 「入る日しも」の「しも」は「よりによって」ということで、その文節を取り立てていう時の副助詞である。源氏が石山詣でをするにしても、常陸介が京に帰還するにしても、日時はいくらでもあったろうに、よりによって同じ日に逢坂の関で鉢合わせしてしまうとは、ということでその偶然に驚いている趣である。なにしろ源氏が京に帰ってきてから既に一年も経っているのだから。
 この「しも」は「時しもあれ」とか「言しもあれ」というように使われる。「時しもあれ」は「日しもあれ」と同じ意味であり、後者は、「他にいくらも言葉はあろうというのに、よりによってその言葉を使うとは・・」という場合に使われる。ひょっとすると「人しもあれ」とか「所しもあれ」などとも使えるのかもしれない。便利な言葉だ。
 それにしても、これほどの偶然では、歌枕の「逢坂」を利用して、源氏と空蝉を「逢わせよう」と言う意図が見え見えではないか、いくら物語とはいえ虚構がすぎはしまいか、と読者に勘ぐられる心配がある。
 そこで紫式部はあれこれと工夫をめぐらすのである。

 源氏一行の石山詣での情報が入ったので、もし狭い逢坂の関で鉢合わせでもしてしまったら混雑は避けられない。時の「内大臣」に対して失礼なことや失策が起きたら今後の政治上の不利は免れなくなる、ということで常陸介は旅程を配慮する。
 『まだ暁より急ぎけるを、女車多く、ところせう(道いっぱいになるほど)ゆるぎ(ゆるゆると)来るに、日たけぬ。打出の浜来るほど、殿は粟田山超え給ひぬ』
 「暁」は、今でこそやや明るくなってからを指すが、古くは「暗いうち 夜が明けようとする時」を指し、随分朝早く出立したのである。この措置で、まずは「わざと逢坂の関で二人を再会させる魂胆だったのでは」という非難は避けることができる。しかしそれにもかかわらず、介一行は、道いっぱいなほどの大層な行列であるし、女車が多いのでなかなか予定通りには進まなかったのだ、と現実感を持たせたのである。
 読者はこのような説明によって
 「なるほど車を十台も連ね、しかも女車が多いのでは行程も芳しからず、それがもとで逢坂の関で鉢合わせしてしまったのでは仕方がない」
と納得する。このあたりの紫式部の用心深さはさすがである。この筆法は、昔物語の域をはるかに越えていて、よく「源氏物語は近代小説」と言われる由縁なのだろう。
 ところで、常陸は大国である。大国の受領を一期勤めると莫大な財産を蓄えることができるという。帰還の行列は大仰になるし賑わしくなるはずである。

 ここに出てくる地名・「打出の浜」は大津市の膳所にあり、「粟田山」は、南禅寺と知恩院の間近くにある山で、今の地下鉄東西線の蹴上あたりであろうか。逢坂の関までは両者ほぼ同じ距離と言えるが、介の一行の方がやや早く関に到着したとみえて、彼らは、源氏一行に道を譲るべく、ここかしこの杉の木の下などに隠れるようにして、かしこまってその通過をやり過ごそうとする。
 
 いずれにしても、こうして「逢坂の関」を使う必然性は出来上がった。
 源氏は空蝉の弟・小君を使って、例の心にもない作り言を伝える。
 「私はわざわざ逢坂の関まであなたを迎えに来たのだ。この熱い思いを分かっていただきたいものだ」
 それを伝え聞いた空蝉は、源氏との昔のことを偲び、感無量になり、その心境を歌にして次のように呟く。
 『行くと来とせきとめがたき涙をや 絶えぬ清水と人は見るらん』
 (行きも帰りも、堰き止めがたいこの涙を、人は絶えず湧き出るこの関の清水だと見ることだろう。~決して源氏様のために流す涙とは思わないだろう~)
 しかし、今更自分の悲しくも複雑な思いを源氏様に伝えたとしてもせんないこと、と涙するのである。
 その後、源氏から消息が来た。
 「せっかく逢坂の関で逢ったというのに、話もできず何の甲斐もなかったですね、私にとっては関守(常陸介のこと)がなんとも羨ましく感じました」
 源氏の久しぶりの消息に、感に堪えられなくなったのだろう、歌を返す。
 『逢坂の関やいかなる関ならん しげき嘆きの中をわくらん』
 (逢う坂、という名を負うていながら、この逢坂の関は、いったいどういうわけで、こうも深く繁った木をかき分けていくように深い嘆き(木)の中を行くのでしょうか                                 林望 祥伝社 『謹訳源氏物語』)

 このように紫式部は、その用心深さのおかげで、「逢坂」という言葉の持つ価値を物語の中に遺憾なくまた遠慮会釈なく利用していくのである。



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