源氏物語

源氏物語たより443

 ←源氏物語たより442 →源氏物語たより444
   光源氏の口達者   源氏物語たより443

 光源氏の弁舌がさわやかであることは今更言うまでもないことで、彼の物語論や音楽論などを聞くと、まことに理路整然としていて、しかも含蓄に富んでいる。やや饒舌が過ぎて分かりにくいところがあることを除けば、能弁であることに間違はない。
 彼が、桐壺帝に奏上することは一つとして退けられたことはなかったとあるのも、それを証明するものだ。彼の提言の内容がいかに優れたものであったか、またそれをいかに弁舌さわやかに説明したかであろう。帝のみならず、群臣も「源氏の言うことであれば」と聞き惚れ、おのずから彼の提言を認めてしまっていたのだろう。
 ただこれは彼の能弁がよい方に出た例であるが、「口達者」であることもまた否めない事実である。「口達者」とは、「口先がうまい」ということで、心にもないことを、甘言、巧言、虚言を弄して相手に言いかかるのだから、そこには非難めいたニュアンスや揶揄(やゆ)しているような響きが含まれていることも払拭できない。だから「口達者」はあまり感心すべき評価とは言えない。今の言葉では「リップサービス」とでも言おうか。
 源氏は、女性に対してこのリップサービスを操ることが多く、その面では天才肌と言える。特に相手に対して何らかの弱味や咎めを感じている時に、これが炸裂する。その結果、「よく言うよ!」と読者を呆れさせたり、時には「何、この男!」と嫌味を覚えさせたりすることになるのだ。

 たとえば空蝉と初めて契った夜がそうだ。
 以前内裏で空蝉の噂を聞いていたことは事実のようであるが、もちろん一度も会ったこともないし、さして美しくもないのだから、源氏の関心が向けられるはずはない女である。しかも彼女は故衛門の督の娘で、源氏とはレベルが違う。
 ところが、方違えでたまたま紀伊守の邸に宿った時に、これもたまたま紀伊守のところに来ていた空蝉に偶然出くわしただけであるにもかかわらず、平然とこう言って口説くのだから、その神経を疑いたくなってしまう。
 『年ごろ思ひわたる心のうちも聞こえ知らせむとてなん、かかる折を待ち出でたるも、さらに浅くはあらじと思ひなし給へ』
 「年ごろ」とは「長い間」ということで、「以前からずっとあなたのことを思い続けていて、こういう機会が訪れるのを待っていたのだ、私のあなたを思う気持ちは浅くはないのだと思ってしまいなさい」と言うのだ。「思いなし給へ」とは恐れ入った自己本位の強制である。
 この場合は、女が「夫持ち」であるという負い目と、「まったく初めて会ったにもかかわらず」という引け目が源氏にあったがゆえに出た強がりであり虚言であろう。
 六条御息所に対してもそうだ。
源氏の心は、もうすっかり御息所から離れてしまっていて、できれば逢いたくない女性になっている。でもあまりの無沙汰では申し訳ないと、出かけはするのだが、引き続いての訪問とはならず、文を送るだけでお茶を濁してしまう。そして通えない言い訳を葵上の病気にするのだ。葵上が病気であることは確かなのだが、通えないはずはないのである。そんな源氏の態度に対して、御息所は
 『例のことつけ』
と見通している。「例の」とあるから、源氏はいつもこの手を使って逢えない「ことつけ」にしていたということのだ。そこで、彼女は次のような歌を贈る。
 「あなたへの恋は、結局涙で袖を濡らすだけとは知りながら、それでもやはり恋の泥田にはまり込んでしまう私なのです」
 この歌に対して源氏は、こう返す。
 『浅みにや人は下り立つ 我が方は身もそぼつまで深き恋路を』
 「あなたの恋はまだまだ浅いところに足を踏み込んだだけですから、袖を濡す程度で済んでいるのでしょうが、私ときたら全身ずぶ濡れになるほどあなたへの恋の深田にはまりこんでしまっているのです」という意味である。御息所への恋心などはすっかり冷めてしまっていて、むしろ逢いたくないのが本心だというのに、臆面もなく平然と言うものだ。
 かつてあれほど夢中になって御息所を自分のものにしたというのに、今ではそれが跡形もなくなってしまっていることに対する負い目が、逆に大仰で空疎な虚言を吐かせたのだ。

 これが典型的に出たのが『蓬生』の巻である。
 源氏は無事京に帰還して以来、二条院の紫上のところにばかりいて、特別な女性でない限り他の女のところには足を運んでいない。ある時、思い立って花散里を訪ねようとして大路を走っていると、藤の花の匂いがする。それに魅かれて物見窓から顔を出して見ると、藤が松に絡んで咲いているではないか。何か記憶にある邸だと思って、惟光に確認すると、やはり末摘花の邸であった。
 邸の中は蓬や浅茅に埋まっていて道もなく、露はひどいし木立からはしずくが雨のように注いでくる。惟光が源氏の前に立って、馬の鞭で露を払い払い入っていく。
 そして、三年半ぶりの再会で、最初に末摘花に語りかけたのが、次の言葉なのである。
 『年ごろの隔てにも、心ばかりは変わらずなむ思ひやり聞こえつるを。さしもおどろかい給はぬ恨めしさに、今まで試み聞こえつるを。杉ならぬ木立のしるきに、え過ぎでなむ、負け聞こえにける』
 最初の一文は、「長い年月、あなたとは隔たったままでおりましたが、私の心はいつも変わらずあなたのことを思い続けておりました」ということであるが、全くの虚言である。花散里を訪ねる途中、たまたま藤の花と松に引かれて立ち寄っただけではないか。「いつもあなたのことを思い続けていた」とは、なんという白々しさか。末摘花のことなど、彼の念頭から霧散していたというのに。
 そして、次の一文がまた凄まじいほどの作り事である。「あなたが少しも私の注意を引こうともしなかった(手紙もくれなかった)から恨めしく思って、あなたの心を試していたのです」というのである。「呆れて口がふさがらない」とはこのことを言うのであろう。
 最後の文は、「古歌でいうところの杉ではないが、松の木があまりにはっきり目についたので、あなたとの心比べに負けてしまって入いってきてしまった」という意味である。松の木に魅かれて入ってきたのは事実ではあるが、「心比べ」などは、彼は全くしていなかったのだ。虚言も甚だしい。
 
 私たちの『源氏物語を読む会』で、ある方が、
 「こんなに嘘つきの悪い男がどうして物語の主人公でなくてはならないのでしょう」
と言われたので、私も「はた!」と戸惑ってしまった。一般的に見ればこれほどあくどい男はない。「おれおれ詐欺」以上の悪(わる)である。紫式部も随分ひどい男を主人公にしてしまったものである。
  しかし、これがもし小心で真面目で平凡な男であったらどうだろうか。
  「長のご無沙汰を平にお詫びいたします。今後はまじめに通いますからどうぞお許しいただきとうございます」
などと平謝りしていたのでは物語にならない。虚言、巧言、甘言を平気で吐けるような型破りの男であるからこそ面白いのであって、その結果、五十四帖にもわたる長大な物語が成り立ったのではなかろうか。
 それにこれほどの虚言癖の男にもかかわらず、彼には何か憎めないところがあるのである。
 先の言葉に次いで、次に言う源氏の言葉は、虚言と真実が混沌と入り混じっているのだが、それは彼の心が変わりだしていることを示しているのだ。つまり末摘花を違った目で見始めているということで、そこに彼の素直さを見て取ることができるのである。
 長年変わらずに自分を待ち続けていてくれた末摘花を評価するとともに、次のように賛辞さえ覚えているのである。 
 『昔よりねびまさり給へるにや』
 (末摘花も昔よりも大人になったのではなかろうか)
 「にや」とあるから、まだ半信半疑ではあるが、とにかく末摘花の成長を認めているのである。この源氏の素直な変化に、我々読者は負けてしまうのだ。虚言を吐いただけでは終わらないのが源氏なのである。
 そもそも、もし平凡な当たり前の男であれば、『末摘花』の巻で、あの雪の朝、あからさまに見てしまった末摘花の醜怪ともいえる容貌や徹底した無口にはとても耐えられずに、さっさと逃げてしまうはずである。でも源氏は決して逃げることなく、
 『今より後の(私の行動があなたの)御心にかなはざらむなむ、言ひしに違ふと罪も負うふべき』
と将来を約束するのである。これは普通の男にはできない芸当である。
 後年、尼になった空蝉とこの末摘花を二条東院に迎えるようになるのだが、それは一度契った女は捨てないという源氏の気の長さであるとともに、真摯で素直で優しい心根の表れ以外にないのである。
 
 もう一つ言えることは、嘘も時によっては必要なことがあるということである。嘘によってその場の状況が好転するのであれば嘘をつくに限る。「嘘も方便」とはこのことを言っている。お釈迦様でさえ弟子に法を説くにあたって、AさんとBさんにまったく逆のことを言ったそうである。どちらかが嘘のはずであるが、でもAさんにはこう説いた方がより良いと思ったからそうしたのである。源氏はこれを最大限活用する能力を持っていた。なにしろ彼に甘言、虚言を言われた女たちで、それによって人間不信に陥ってしまったり、人生に絶望してしまったりしたものはいないのだから。
 さらにもう一つ付け加えておこう。我々は、文字の上だけで源氏の言葉を見ているだけで、実際には話し言葉にはこれに様々な要素が加わるということを忘れがちであるということである。文字上の言葉は非常に強く受け取られやすい。したがって源氏の言葉などはあまりに見え見えの甘言、巧言であって「よく言うよ!」と呆れてしまうのだが、実際には話すの時の声の調子があったり抑揚があったり間があったりするのだ。そればかりではない、身振りや表情も加わる。それらがすべて合わさって話というものは成立するのである。結構きついことを言っていても相手にはさほどきつく聞こえないなどということもよく経験するところである。それは話の調子や身振りなどで印象が変わってくるからである。
 源氏の容貌についてはいまさら言うまでもない。声はどうだっただろう、『紅葉賀』の巻で源氏が青海葉波を踊った時のことを思い出してみよう。彼の歌を詠じる声は「迦陵頻伽」の如く、とあった。迦陵頻伽とは、極楽に住むという鳥で仏の声に通じるという。その声で甘い言葉がささやかれるのである。抑揚も間もまた絶妙のものであったはずである。彼が一たび話せば「鬼神の騒がず」というほどであったのだから、どんな女も、身も心も蕩(とろ)かされたはずである。
 
 「口達者」な源氏にもかかわらず、憎み果てることができず、多くの読者を千年にわたって離さなかった理由がこれらにある。


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 郷愁
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏物語
  • 【源氏物語たより442】へ
  • 【源氏物語たより444】へ
 

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【源氏物語たより442】へ
  • 【源氏物語たより444】へ