源氏物語

源氏物語たより444

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    生き生きとした祭り見物の人々の様  源氏物語たより444

 桐壷帝から朱雀帝へと代替わりしたので、おのずから斎宮と斎院も交代ということになった。斎宮とは伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女であり、斎院は賀茂の大神に奉仕する同じく皇女である。今回の斎院は、弘徽殿女御腹の女三の宮ということもあって、祭りの儀式も特別いかめしいものになった。供奉する上達部などの数は決まっているのだが、いずれも世の評判は高く容貌も優れたものばかりであるうえに、帝の特別な宣旨で、光源氏も供奉することとなったのだから大変である。あたかも「嵐」が祭りに出演するようになったかの如く、都中が大フィーバーしてしまった。
 『一条の大路、ところなくむくつけきまで騒ぎたり』
 「むくつけきまで」とは、「恐ろしいほどに、気味悪いほどに」という意味で、あまりの混雑に本当に気持ちが悪くなってしまう者まで出るほどだ、ということである。あるいは救急車なども出動するという騒ぎだったのかもしれない。
 大路にはそれぞれ有力者が「これ見よ」とばかりに美麗、嗜好を尽くした桟敷がしつらえられ、その桟敷からは女の袖口がこぼれ出るという、それだけでも大変な見物(みもの)である。

 上達部は、下襲の色にしても表袴の紋にしても馬の鞍にしても、これ以上はないというほどに様よく決めているし、さらに他の供奉者も身分身分に応じて装束の限りを窮めて大層ないでたちをしている、・・が、それらも所詮、源氏の光り輝く様子にはつや消しになってしまう。とにかく源氏の輝かしさには木でも草でも靡かないものはるまいというほどなのである。その様子が次のように描写されている。

 『壺装束などといふ姿にて、女ばらの卑しからぬや、また尼などの世を背きけるなども、倒れまろびつつ物見に出でたるも、例は「あながちなりや、あなにく」と見ゆるに、今日はことわりに、口うちすげみて、髪着こめたるあやしの者どもの、手をつくりて額に当てつつ(源氏を)見奉りあげたるも、をこがましげなる。
 賤の男まで、おのが顔のならむ様をば知らで、笑みさかえたり。
 (源氏が)なにとも見入れ給ふまじきえせ受領の娘などさへ、心の限り尽くしたる車どもに乗り、様ことさらび、(源氏に)心懸想したるなん、をかしき様々の見物なりける』

 壺装束(中流の婦女が徒歩で外出する時の衣装、)の女を「壺装束などといふ姿にて」と、最初に上げてあるところをみると、日ごろは京ではあまり目にしない姿なのだろうか。その壺装束の身分卑しからぬ女や、俗世を捨てた尼などまでが倒れ転びしながら見物しているのだ。
 世を背いた尼が、こけつまろびつして祭りに熱中しているというのだから、確かに通常なら「なんとみっともない、なんと憎らしい」と思われてしまうのだが、なにせ今日は源氏のご出馬ということもあって、それも当然と言うしかない。
 「口うちすげみ」とは、歯が抜けて口がすぼんでいる様である。そんな卑しい身分の女(老い人なのであろう)が、髪を衣の下に着込んで、手を摺り合せて額に当て、源氏をうっとり眺めているのである。なんとも「おこがましい姿」ではないか。
 賤の男(田舎者)まで、自分の顔がどうなっているのかも気づかず、まあ、顔をくしゃくしゃにして笑み喜んでいる。
 また、源氏が目にも留めないようなつまらぬ受領の娘などまでが、これ以上はないというほどに飾り立てた車に乗って、源氏に向かって恋心を燃やしている、とは何とも面白い見物(みもの)である・・というわけである。

 ここには千年前の葵祭りを見物する庶民の様子が活写されている。これほど鮮やかに描かれるというのは稀有なことで、民俗学者を喜ばせるのではなかろうか。
 とともに、紫式部のひねくれ根性もいかんなく発揮されている。この作者は、もの・ことを素直に見ないで、いつも裏から横から観察する癖がある。いつにない盛大な祭りなのだから物見客と一緒になって素直に明るく振る舞えばいいのに、そういう連中を皮肉な目で眺めている。これでは見られている者はかなわない。
 混雑しているのだから「倒れ、まろびつ」するのは仕方がないではないか。歳を取れば歯は抜けて口がすぼんでしまうのも仕方がないことだ。また物を一生懸命に見ていれば自分の顔がどうなるかなど気にする者はいない。しかも賤の男なんのだから、もともと自分の顔など気にしない種族だ。「放っといてくれ」というものである。
 確かに出家した尼さんが、若々しく優美な源氏の姿を見て大騒ぎしているのは奇妙と言えば奇妙だ。紫式部にとっては、彼女たちは美男に熱狂するミーハーにしか見えず、それがおこがましく映るのであろう。
 もっとも現在でも、いい歳をして「ジャニーズ」に夢中になっているおばさんがいる。あれもなんとなく違和感を覚えることは確かではあるが。

 彼女にはとかく物事をすがめで見る癖があるのだ。たとえば、庭池で水鳥が気持ちよさそうに泳いでいるのを見ても、彼女の目は水中の鳥の足に注がれてしまう。そして「水鳥だって苦しいのだろう」と見てしまう。これでは水鳥にしても「せっかく気持ちよく泳いでいるというのに、勝手にしてよ!」と怒ってしまうことであろう。 
 また帝の乗っている御輿(こし)が、階段を上る様子も、彼女の目はそれ担いでいる輿丁(よちょう)の苦しげな姿に注がれてしまうのである。そして「ああ、重そう、可哀想・・」と見てしまうのだ。(以上の二話、『紫式部日記』より)
 とにかく、めでたく華やかな賀茂の祭も、彼女にあっては皮肉な目をきょろきょろとさせ、嘲り笑いの対象を求めようとする催しになってしまうのである。

 私も、数年前この祭りを見ている。私が行った時にはすでに行列は河原町通りを通行中で、広い通りが見物客で二重三重になっていた。下鴨社では社頭の儀で、馬が疾走する様子を群衆の頭の上から見ていたが、馬さえ見えなかった。その後、上賀茂社まで行列について行って、なんとしても斎王代~今は斎院(斎王)制度がないのでそれに代わる人~だけでも見たいものと思ったが、豆粒のように見えたのが、斎王代なのかどうなのか、それすら分からない人ごみであった。
 千年前の、しかも源氏がご登場の祭りでは、私が見た時の混雑など比べものにならないかもしれないが、それでも凄まじいほどの人、人、人であった。

 それにしても、紫式部は、祭り本来の姿である煌(きら)びやかで荘重な行列から目をそらせて、それに熱狂する群衆のあれやこれやに視点を注ぐというのだから、まことに風変りであり彼女にしかできない芸当と言えるのかもしれない。ひょっとすると、間抜けた顔で斎王代を探していた私の顔を、皮肉な目で見ていた現代版紫式部もいたかもしれない、と思うと背筋が縮んで、うかうか祭り見物もできない。


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