源氏物語

源氏物語たより449

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   『花散里』の巻の意義   源氏物語たより449

 『花散里』の巻は、原稿用紙にして五枚程度の極めて短い巻である。内容的にもさしたる筋もなく淡々としている。『賢木』の巻までの変転目まぐるしい華やかな内容とは打って変わり取り留めもなく、この巻だけが浮いている感じがする。どうしてこんな面白味のない巻を設定する必要があったのだろうか。
 ところが、丁寧に読み進めていくと、源氏物語の主題である「あはれ」を見事に具現化している巻であることに気付かされるのである。

 光源氏が花散里を訪ねようとしたのは、最近彼女にご無沙汰で、ふさぎ込んでいるのではなかろうかと思ったからである。実は彼自身も、右大臣の世になってからというもの、悩ましいことばかりが続き、辛い思いに沈んでいたのである。そんな自分の身に触発されて、「ひょっとすると花散里も・・」という思いで、五月雨の珍しい晴れ間をぬって出かけたという次第である。
 花散里という人は、源氏が内裏でちょっとした機会に契りを結んだだけで、もともと深く愛するような女性ではなかった。ただ、一度でも関係を持った女性は終生忘れることなく面倒を見るという源氏の例の性格上、生活面の世話などを律儀に見るという程度の細々とした関係であった。ところが、最近では自らの憂さ辛さに引きこもっていて、それさえ滞っていたのかもしれない。

 花散里邸への道すがら、中川あたりで、昔契った女に声を掛けてみたが、相手は心変わりしてしまったのか、はかばかしい応答もしてこない。久しいご無沙汰だからそれも仕方のないことかもしれないが、なんとなく暗然たる思いがしないではない。
 花散里の邸に着くと、先ほど中川あたりで鳴いていたホトトギスがここでも鳴いている。どうやら源氏について来たようである。源氏に付いてくるのはホトトギスぐらいになってしまったのだろうか。
 そういえば、「ホトトギス」と言えば「橘」が対になって語られることが多く、また「橘」と言えば「昔の人」というのが、古来からの人の認識の流れである。古今集にこんな歌がある。
 『五月待つ花橘の香をかげば、昔の人の袖の香ぞする』
 このように、「橘」は、昔の人を思い出す「つま(よすが 縁)」になるものと言われていたのである。ところが、今の源氏は、昔の人とも途絶えがちで、親しく話し合う人とて少なくなってしまった。

 源氏は、まず花散里の姉・麗景殿女御と話を交わす。この女御は、桐壷院に特に寵愛された人ではないが、心遣いも行き届き上品でいじらしい方である。そのために桐壷院は、睦まじく何か心惹かれる人という面で評価していた。今もその人柄は変わっていない。この人を前にすると、昔のことがとめどなく思い出され、親しく語り合うことができるのだ。あらためて源氏はこの人の睦まじく心惹かれる人柄を好ましく思うのである。
 そんな女御の人柄に魅かれるように、源氏は次のような述懐をする。
 『(人というものは)おほかたの世に従ふものなれば、昔語りもかきくづすべき人、少なうなり行くを』
 「今や世は、右大臣の時代になってしまって、右大臣の意のまま権勢のまま。誰もみなそちらに靡いて行ってしまいます。そのために昔語りなどをぽつりぽつりと語ろうと思いましても、そういう相手さえ少なくなってしまいました」という感懐である。
 すると女御は、源氏にこんな歌を詠いかけてくる。
 『人目なく荒れたる宿は 橘の花こそ軒のつまとなりけれ』
 (今では訪れてくれる人もなくなり、荒れ放題になってしまった私の邸ですが、花橘だけが、あなたを誘うよすがになったというわけですね)
 この屋敷が人目も枯れ、すっかり荒れはててしまっている様は、源氏が今置かれている情況と同じである。そのような情況の中でも、「変わらずに訪れてくれるのは源氏様だけですね」と思いが彼女の心のそこにあるようである。

 この後、源氏は花散里の部屋に行く。
 そして彼は、花散里の姿を見ながら、またしみじみと自己反芻するのである。
 「かりそめの男女の関係だとしでも、そんな付き合い方では満足できないと思う女は心変わりして去っていく。中川の女もそんな女の一人だ。それも仕方のないことなのかもしれない。いやそれこそが世の当然の姿なのであろう」。
 しかし、源氏の本心はもちろん逆である。どんなに荒れた邸になっても、またどんなに苦境に陥った人でも、昔を忘れずに尋ねてやるというのが人の道ではなかろうか。
 かつてそれなりに帝の愛を受けていた女御も今ではすっかり様変わりしてしまっている。自分もかつてのように華やいでいた姿は影をひそめてしまっている。昔語りのできる者とてなく、侘しくつれづれをかこっているしかない境遇は、ともにその変わりようにおいて、「あはれ」以外の何ものでもない。それでも常に変わらず同じ心を持ち、親しく交わってくれる人など、稀有のことである。

 と、ここまで読み進めてきて、ふと気づいたことがある。それはこの巻が『蓬生』の巻につながっていくのではなかろうかということである。「『かはらぬ末摘花』 たより438」で述べたことであるが、末摘花は、三年余にもわたる源氏との途絶えにもかかわらず、ただひたすら変わることなく源氏を待ち続けていた。その「変わらなさ」に、源氏はひどく感動させられ「あはれ」を覚えたのである。

 淡々として何の面白味もないと思われた『花散里』の巻が、実は『蓬生』の巻のみならず、須磨の巻以降の折々の源氏の心境に現れる「人の心の変化,あるいは不変化」というところから生まれる「あはれ」が見事に具現されていて、俄然輝きを増して見えてくるのである。もちろんそれは源氏物語全体を流れる主題であるが故なのだが。


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