源氏物語

源氏物語たより455

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    光源氏の子育て方針   源氏物語たより455

 光源氏の子・夕霧が十二歳の元服を迎えた。元服とともに位を賜るのだが、源氏ほどの身分(内大臣)の息子であれば、四位からスタートさせるのが通例である。特に夕霧の場合は、嫡男(故葵上の子)でもあるから当然そうすることができた。ところが、なんとあえて六位としたのである。
 六位と五位とでは雲泥の差がある。五位に叙せられることを「こうぶりを得る」と言う。こうぶりを得て初めて「人数(一人前の人間)」に数えられるのだ。いわゆる上級貴族の仲間入りができるということで、奈良時代には、その人数は120名余であったという。平安時代にはもっと増えていたであろうが、とにかく六位以下では人数にも入らないのである。まして四位との差は論外というものである。
 さらに、位によって衣の色まで異なる。六位は「浅葱(あさぎ 薄藍)色」で、四位、五位が「緋色」なのに対して、一目でその身分が知れてしまう。
 また五位以上の人を「殿上人」と言い、彼らは清涼殿の殿上の間に昇殿を許されたので、そう呼ばれた。これに対して六位以下の者を「地下」と言う。もちろん清涼殿への昇殿を許されず、地面にいたからこう呼ばれたのだが、これほど明白に身分差を示す言葉はない。だから、彼らはこうぶりを得るために奔走した。ただ、夕霧の場合は六位と言っても「六位の蔵人」なので、特別に昇殿は許されていたのだが。

 位ばかりでなく、源氏は、元服と同時に夕霧を大学に入れた。通常、上級貴族の子弟が大学に通うなどということはない。なぜなら大学の知識などがなくても、彼らは自然に位を窮めることができたし、要職に就くこともできたからである。したがって、彼らに必須の教養と言えば、管弦や和歌や書に堪能であることにあった。

 源氏のこの処置を一番恨んだのは、もちろん夕霧である。彼は大学に入ったことについてこう嘆く。
 『(父は)つらくもおはしますかな。かく苦しからでも、高き位に昇り、世に用ひらるる人は、なくやはある(ないわけではない)』
また、彼を子供の時から優しく育ててきた祖母の大宮などは、源氏の措置を到底承知できるものではないと憤りさえおぼえた一人である。世間もまた源氏の措置に首をかしげた。
 源氏は、どうしてこれほど人々の予想に反した無情な厳しい措置を取ったのだろうか。彼の考え方を追ってみよう。不満を募らせる大宮に向かって、彼が諄々と説いた言葉にその本意を見ることができる。

 ① まだまだ幼い夕霧を一人前扱いするのはどんなものでしょうか。
 ② それより大学に入学させ、二、三年間は、位などとは無関係な立場に置いて、広く学問をさせたいと考えます。
 ③ 夕霧もいづれは公に仕える身なのですから、その時までには一角の人物にはなっているはずです。
 ④ 自分は昼夜、帝の前にいて、世の有様も知らないままに育ってしまいました。何事も広く世間を知らなければ、どの分野にし  てもそれなりの能力を身に付けることはできません。
 ⑤ どんな子でも、親より優れているということはないもので、もし子子孫孫、親より劣って行けば、その末が思いやられます。
 ⑥ 身分の高い家柄に生まれると、学問などしなくても戯れ遊んでいても自然に位は上がりよき官職に就くこともできます。
 ⑦ しかし、世間というものは時流を見るのに敏く、そういう家柄の子に追従し相手の顔色をうかがって行動するものです。そうな  ると自分はいっぱしの人間であるかのように錯覚してしまうものです。
 ⑧ 時移り、しかるべき親などがいなくなったりしますと、権勢も衰えていき、頼る所とてなくなり、ついには人にも侮られる結果に  なります。
 ⑨ やはり学問をしっかり身に付け、地力を付けなければなりません。それをもとにしてこそ自分なりの判断力や洞察力が生まれ  決断力も身に付くようになるものです。(源氏はこの力を「大和魂」と言っている)
 ⑩ 大学入学の当初こそなにかもどかしいと思われるでしょうが、ついには世の重鎮と成るための力を今のうちに学ばせておき   たいと思うのです。

 実に理路整然とした堂々たる論理で、一点の隙もない。確かに甘やかされて育った子の将来は、まことに頼りなく脆弱なものだ。肝心なことは、困難な状況に陥った時も、蓄えた知識・教養を生かして自ら判断し決断し行動できることだ。そして困難を一つ一つ解決して這い上がってくるようでなければ、一人前の人間としては使い物にならない。
 これは現代の子育てにも十分通じる立派な論理である。
 しかし、平安時代の世相を反映した論理であるかというと、いささか疑問が残る。なぜなら当時は藤原氏全盛の時代で、藤原氏以外が這い上がって、政界のトップに立つことなどできなかったからだ。菅原道長のような人物はめったにないことで、彼は学者の身から、右大臣にまでなり昇った稀有の人物である。後に、醍醐天皇の皇子・源高明も左大臣にまでなっているが、このような例は稀で、藤原氏からすぐ目を付けられてしまう。道真も高明も藤原氏によって政治生命を絶たれている。
 藤原道長やその父・道兼は、同族の関係に腐心しながらもついに天下を掌握した。しかし、それは漢学の素養などによるものではない。兼家は、醜い兄弟争いの結果、ようよう権勢を手にしたし、道長が絶対の権力を掌握することができたのは、兄たちが相次いで病に倒れるという多分に運に左右されたものがあった。
 それにしても、彼ら二人には、先天的な洞察力あるいは決断力が備わっていたのかもしれない。また機に見て間髪を入れず果敢に行動する力も備わっていた。それに運が味方したのだ。二人が権勢を奪取するまでの経緯は、物語以上に変化があり面白のだが詳しいことは割愛する。いずれにしても、源氏が滔々と述べたような漢学の素養や知識・教養の深さ広さが、道長などに権勢をもたらせたのではないことは確かである。
 夕霧は、大学は優秀な成績で卒業したものの、それほど優れた人物とは思えない。どちらかと言えばお人好しで決断力にも欠け、源氏とは比較内ならないほどの小ぶりの人物である。それでも太政大臣にまで成り上がることができたのは、光源氏という偉大な人物の「お光」のたまもの以外の何物でもない。
 とにかく彼が培った漢学が物語上で役に立った話はない。

 それでは、源氏はなぜあのように熱く子育て論を展開したのだろうか。私は、あれは紫式部の理想であったのではなかろうかと思っている。おそらく紫式部の周囲には、彼女以上の漢学の素養の持ち主もいなかったし、彼女に匹敵する知識・教養を持った男もいなかったのだ。
 また名門に胡坐をかいて、能力もないのにエスカレートで運ばれるように高位・高官に昇って行く現実を見るに堪えなかったのだ。そういう現実から帰納した結果が、
 「男というものはかくあるべし」
という強い願望となり、あのような整然たる堂々たる論理を、源氏をして熱く語らせたのだろう。



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