スポンサー広告

スポンサーサイト

 ←源氏物語たより461 →源氏物語たより463
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 郷愁
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏物語
  • 【源氏物語たより461】へ
  • 【源氏物語たより463】へ
  • TB(-)|
  • CO(-) 
  • Edit
 

源氏物語

源氏物語たより462

 ←源氏物語たより461 →源氏物語たより463
    明石君の大井の邸はどのあたりか  源氏物語たより462
 
 光源氏の再三の催促にもかかわらず、容易に上京しようとしなかった明石君が、ようよう腰を上げた。しかし源氏が考えていた京の街中に来ることはなかった。落ち着いたのは京の街中から五、六キロ離れた大堰川(大井川)の辺であった。
 彼女が上京を渋ったのは、自分のような田舎者が、今更貴い女性方が大勢いる源氏の二条院に行ったとしても侮られるばかりで、心安く過ごす場所さえなかろうと心配したからである。その事情を父・明石入道はこう語っている。
 『にはかにまばゆき人中、いとはしたなく、田舎びにける心地も静かなるまじきを、古きところを訪ねてとなむ』
 それに、源氏の所に行けば、愛する姫君を渡さなければならなくなるのも目に見えている。ということで、一日伸ばしにしてしまったのである。
 しかし、姫君はもう三歳、このまま田舎育ちでいいはずはないと、苦渋の決断をしたのだ。その結果「静かなる」場所として、大堰川の近くにある母の祖父の所領に目を付けたというわけである

 この大堰川の辺の明石君の邸とは、現在でいえばいったいどの辺りになるのだろうか。この問題は源氏物語を鑑賞するうえではさして大事なことではないだろうが、それでも、明石君がなぜ大堰川を選んだのか、またそれはどのような所であるのか、など気になるところでもあるし、もし特定できれば、これから源氏物語の旅などをするうえで、何らかの参考になるのではなかろうか、と思って追求してみることにした。
 物語のもろもろの言葉から判断すると、現在ではすっかり観光地になってしまっている嵐山あたりが、一番該当しそうである。もしそうだとすれば、大堰川ではなく、我々が日ごろ呼び慣れている保津川であるはずだ。これはどうなっているのだろうか。広辞苑によれば大堰川は
 「丹波山地から亀岡盆地を経て、京都盆地北西隅、嵐山の下へ流れ出る川。亀岡盆地と京都盆地の間は、保津川ともいい、下流を桂川という」
とある。この説明からすると「大堰川」が正式な名称のようである。とにかく我々は例の渡月橋の下を流れる川は保津川だと思っていたし、そのためにあの川を舟で下る川下りを「保津川下り」というのだと思っていた。

 それはとにかくとして、当時嵐山あたりはどんなところだったのであろうか。源氏物語の舞台になっているのは、醍醐天皇のころと言われる。平安京ができて百年あまり後のことである。京の街中こそ殷賑を極めていたであろうが、一歩郊外に出れば、一望の山野、山林、田畑であったはずである。『賢木』の巻に、源氏が嵯峨野の野宮に六条御息所を訪ねる場面がある。そこに嵯峨野の風景がこう描かれている。 
 『はるけき野辺を分け入り給ふより、いとものあはれなり。秋の花みな衰へつつ、浅茅が原も枯れ枯れなる虫の音に、松風すごく吹き合はせて・・』
 この野宮は、今でも天竜寺の奥に、「恋の成就」を願う高校生などで溢れている「野宮神社」として残っている。ところが、千年前は、このあたりは、「一望の野辺」であり、「松風が身も凍るほどに寂しく吹くところ」であった。今でこそ渡月橋は人でごった返し、茶店が軒を並べ、観光船が行き交い、美空ひばりの記念館さえあるのだが。ここは京都屈指の観光地で、京都に行く人はみなまずはこの嵐山を目指すのではなかろうか。だから今では千年の昔を偲ぶよすがさえなくなっている。先の広辞苑には
 「嵐山付近では平安時代、管弦の船を浮かべて貴族が宴遊した」
とあるのだが、それは、年に数回の催しに過ぎなかったろう。日ごろは、嵯峨野は虫の宿りであり鳥の天下であったはずである。
明石君が邸と定めた場所は
 『あたりをかしうて、海面(うみづら)にかよひたるところの様』
であるという。「海面にかよひたる」とは、今まで明石君が住んでいた明石の海岸に似ているということで、これはおそらく明石入道が、突然京の都に出ることとなった娘の気持ちを少しでも和らげてあげようと配慮した結果であろう。いずれにしても大堰川に極めて近いということである。

 ところで、この近くに源氏は御堂を建築中だった。それは
 『大覚寺の南にあたり』
とある。大覚寺の南約五百メートルの所に現在あるのは、清涼寺である。この寺は源融ゆかりの寺で、光源氏が建てた「嵯峨の御堂」のモデルと言われる。ここは渡月橋のあたりからは、一キロほど入ったところなので、大堰川からはだいぶ離れている。とても「海面にかよひたる」とは言えない。明石君の邸は大堰川にもっとずっと近い。『薄雲』の巻にこうある。
 『いと木繁き中より、かがり火どもの影の、遣水の蛍に見えまがふもをかし』
 「かがり火」とは、大堰川でかがり火を焚いて鵜飼をしている火のことである。それが木深い茂みの中から、遣水の上を飛んでいる蛍の火のように見えたというのである。つまり明石君の邸から直接大堰川のかがり火が見えたということで、とにかく川に直面したところに建っていた証拠である。
 ということで、明石君の大井邸は、今観光地として賑わっている嵐山に極めて近いということになる。渡月橋のすぐ東にある臨川寺あたりであろうか。あるいは天竜寺あたりということも考えられる。
 明石君は、源氏の訪れのない時に、明石の海に似通った大堰川を見て故郷を偲び、蛍の火にまがう鵜飼舟のかがり火を見て寂しさを慰めていたのだろう。それでも冬ともなればたまらない。
 『冬になりゆくままに、川面の住まひ、いとど心細さ勝りて、うはの空なる心地のみしつつ、明かし暮ら』
していたのである。

 私は、渡月橋の近くに「明石君の大井の邸」という碑を建ててくれないものかと思っている。美空ひばり記念館も結構ではあるが。というのは、京都市堺町通には夕顔の墓があるというし、明石市には源氏が明石君のところに通った道の碑があるという。嵐山あたりに明石君の邸跡があって何の不思議もない。ロマンがあって楽しいではないか。

 なお、紫式部の墓は、小野篁の墓に並んで、堀川通りと北大路通りの交差点近くにある。また源氏のモデルと言われる源融の墓(碑)は、嵯峨天皇の碑と並んで先の清凉寺にある。東本願寺近くには、源氏の六条院のモデルになった源融の別荘・河原院の跡ともいわれる渉成園(別名、枳殻園~きこくえん~)がある(実際の河原院とは位置がずれているが)。さらに『松風』の巻で、源氏が明石君親子を訪れた時に、多くの貴公子が源氏を慕ってやってきた時、「桂の院」で盛大な宴会を行っている。今の桂離宮は、この「桂の院」になぞらえて造ったものとも言われている。
 
 源氏物語の世界を髣髴とさせる、そんな遺跡を巡るのも面白いのではないだろうか。


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 郷愁
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏物語
  • 【源氏物語たより461】へ
  • 【源氏物語たより463】へ
 

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【源氏物語たより461】へ
  • 【源氏物語たより463】へ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。