源氏物語

源氏物語たより468

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錠の錆~さまざまなむすぼゝれ~  源氏物語たより468

 紫上に哀しい思いをさせた女性に朝顔がいる。後の女三宮ほどではないにしても、光源氏が朝顔に執心する姿は、二十四歳の紫上に深いため息をつかせ、いたたまれないほどのやるせなさを感じさせた。
 
  この日もそうだった。朝顔が、父である桃園式部卿宮の崩御に当たり、斎院を下り自邸に戻っているということで、源氏は、絶好の機会到来とばかり訪問することにした。その出で立つ様は
 『なつかしき程になれたる御衣どもを、いよいよ(香を)焚き染め給ひて、(一日中)心殊に化粧じ暮らし給へれば・・鈍たる御衣どもなれども、色あひ、かさなり好ましく、なかなかに見えて、雪の光にいみじく艶なる御姿』、
なのである。この年の三月、藤壺宮が崩御され、源氏は、義母に当たる藤壺宮への服喪の意を表すべく鈍色の服を着ているのだが、その衣の色と下に着ている衣との重なりが喪服にもかかわらずかえって好ましく見え、それが雪に映えてまことに優艶である。
そういう艶なる姿で女のところに出ていく源氏の姿を、紫上は
「慣れるにしたがって辛いことばかり多くなるもの・・」
とさびしく呟きながら、物にうち臥して、出ていく源氏の方には目もやらない。

さて、源氏が朝顔の邸に着くと、西門から入ってくれという。ところが雪の降る夜にまさか源氏さまが訪れようとは思いもしなかったのだろう、門番が寒そうな恰好で出て来はしたが、門はなかなか開かない。門番が言う。
『錠のいといたく錆びにければ、開かず』
その言葉を源氏は「あはれ」と聞くのである。この感慨の後に、源氏のしみじみとした思いが、次のように綴られていく。
『昨日、今日と思すほどに、三年のあなたにもなりにける世かな。かかるを見つつ、かりそめの宿りをえ思ひ捨てず、木草の色にも心を移すよ』
(月日の経過の無常迅速なのにもかかわらず、やれ豪奢な住まいをとかやれ美しい花鳥よとか夢中になっていることよ)

ここで問題になるのが「三年(みとせ)」である。この三年は何を起点にして言っているのだろうか。物語の流れからすれば、朝顔の父宮の死からということになるのだが、宮が亡くなったのは、この年の六月ころで、三年など経ってはいない。
これが従来さまざまな説を生むもとになった。それにもともと伝本によっては、これを「三十年」にしているのもあるそうで、角川書店や小学館は「三十年」をとっている。このようなこともあって、私が参考にしている解説書も、何を起点にするかはそれぞればらばらである。  
岩波書店は「桐壷院の崩御」を、角川書店は「源氏が生まれてから」を起点にしている。小学館はこれを明確にせず、漠然と「もう三十年も向こうのことに」としている。しかし、いずれにも無理がある。玉上琢哉(角川)などは、源氏の年齢が三十一歳だからこれにこじつけたのであろう、ご丁寧に
「当時こういう言い方、ことわざがあったとみる方がよさそうである。三十年はジェネレーションであり、一区切りであることは洋の東西とも変わらない」
といつものように勝手な解釈をしている。しかしながら、いくらなんでも「三十年」を「昨日、今日」とは言わないだろう。山岸徳平(岩波)は、桐壷院の崩御としているのだが、院が亡くなったのは九年前のことである。そこで苦しくなったのか、
  「三年は十年の誤写であろう」
と、玉上琢哉に劣らない珍案を披歴している。学者らしくないことおびただしい。それに十年にしても「昨日、今日」とは言わない。 小学館は素直で、その傍注に
 「三十年が何を指すかは不明」
としている。このように諸説紛々である。
 いずれにしても時の経過の迅速さと無常を言っていることに間違いはなかろう。
 
それでは先の錠の錆にはどういう意味があるのだろうか。式部卿宮は、桐壷院の弟で源氏にとっては叔父にあたる。亡くなったのは、藤壺宮の四十九日以降で、六月ころと思われる。宮の死以後、源氏が最初に朝顔を訪問したのが九月のことである。その時も式部卿宮の邸の様子を
 『ほどもなく荒れにける心地して、あはれに、けはひしめやかなり』
と源氏は感じている。宮が亡くなってわずか三ケ月ほどしかたっていないのに、「荒れた」気配がしたというのだ。
 二度目の訪問は、それから三ケ月後の十一月である。つまり宮が亡くなってからわずか半年の間に、門の錠が錆びるほどになっていたというのだ。最初の時は「荒れにける心地」だけだったが、二度目には、単なる感覚ではなく具体的な荒れとして源氏は捉えたもので、その事象を源氏はこう詠っている。
 『いつの間に蓬が門とむすぼゝれ 雪降る里と荒れし垣根ぞ』
 「むすぼゝれ」とは、「結ばれて解けにくくなる」ということで、この場合は、蓬が門を塞いでしまって、扉が開かなくなっていることを比喩したものである。また、人の心の状態として「心が塞いで晴れ晴れとしない」ことを表す言葉でもある。
宮は、天皇の弟ということで、生前は人の出入りも多く、門は間断なく開け締めされていたのだろうが、死してわずか半年で、門が開くことは少なくなってしまった。かつての勢威とのギャップは甚だしい。この栄枯盛衰こそが、人の世の常なのだが、 
「私(源氏)は、かりそめの宿りに執着し、木、草の色に一喜一憂しているが、愚かなものである」
と彼を嘆かせたのである。この絶対的真理を分かっていても、人というものは花・鳥に浮かれ恋に身を焼く存在なのである。

  この後、源氏は朝顔の部屋に行ってとかく言い寄るが、彼女は相変わらず門の錠が錆びついたように、心を開こうとしない。それでも源氏はこのまま負けてはならじと意地になり、朝顔に執心していく。そのために二条院に帰ることも少なくなってしまった。
これでは紫上は浮かばれない。彼女は、
『忍び給へど、いかが(涙が)うちこぼるる折もなからむ』
という心境になってしまうのも当然である。「いかが」は反語になっていて、「どうして涙がこぼれない折などあろうか」ということで、いくら我慢しても涙が流れて止まらないのである。

雪の大層降る夜、源氏が過去に関係した女性たちとの遍歴を紫上に話して聞かせている時に、彼女は寂しげにこんな歌を詠む。
『氷とぢ石間の水は行きなやみ 空すむ月の影ぞ流るる』
「岩間」とは遣水の所に配置された立石などの岩のことであるが、そこを流れる水が凍りついたようになかなか流れかねている情景を詠ったのである。もちろんこの水は紫上自身の心の表象あり、「空すむ月」は、源氏の表象である。
「私がこれほど悩み、心も凍りついているのに、源氏さまは、女性方のところに自在に流れていく」
という意味を込めて歌ったものである。
池の水が氷で閉じてしまって水が流れがたいように、紫上の心もむすぼゝれ、錠が錆ついたように開かなくなってしまったのだ。

ところで、この歌について、諸解説書や訳書が、なんとも意味のない訳し方をしているのには驚く。たとえば祥伝社の林望訳「謹訳源氏物語」は
「氷が張りつめて岩間の水も行きなずんでいるけれど、あの空に澄み渡っている月の光は遮るものもなく流れ落ちてくる」  
と訳しているのだ。岩波も角川も円地文子も瀬戸内寂聴もみな同じである。紫上は、目にした情景をそのまま歌にしただけというのだろうか。そんな写生の歌をあの紫式部が物語に取り入れるはずはない。彼女は、すべての形象に意味を持たせる作家である。無意味な歌など源氏物語の中には一つとして採られていない。
この歌も何かを暗示していると考えなければならない。何を暗示しているかは、先にも述べたように紫上の心境と彼女の目に入る源氏の姿である。その意味で小学館だけがこの歌を正しく訳していると言えそうである。 
  「氷の張っている石間の水は流れかねているけれども、空に澄む月影は西へと傾いてゆきますー私は閉じ込められ、どう生きていけばよいのか悩んでおりますので、嘘ばっかりおしゃって私を離れていこうとするあなたのお顔を見ると泣けてきます」
 その通りである。

『朝顔』の巻は、すべてが「閉じられ、むすぼゝれ」ている状況を物語ろうとしたものであると思う。式部卿宮の邸は、わずかの間に人々から忘れられ、門の錠まで錆びついて開かなくなってしまった。朝顔は、源氏に対して心を閉ざしたままである。彼女が源氏の求愛を拒否する理由は必ずしも定かではないが、六条御息所に対するように源氏のつれなさは頓に評判で、朝顔はそのことを熟知している。御息所の二の舞はしまいと、源氏に対してはむすぼゝれたまま心を開こうとしないのだろう。
紫上もまた然りである。彼女の心が塞いで晴れ晴れしないさまは殊の外激しく、絶望的とさえいえる。紫上は、『松風』の巻でもこういう思いをさせられているが、あの時にはまだ余裕があった。しかし、この巻では救いようがなくなっている。
このような状況にあるにもかかわらず、無自覚に源氏は朝顔、朝顔とあくがれ歩く。この世は無常迅速なのだから、そんなに多くの女性の所を経(へ)巡って愛情をまき散らさずに、理想の女性と自他ともに認めている紫上一筋に過ごせば、夫婦生活も安泰なのに。
宮の屋敷の錆びた門は「ひこじろひ(無理に引っ張って)」開けることができたのだが、源氏は、この後、紫上の凍りついた心を「ひこじろひ」開けようとするが、開けわびる羽目に陥る。
彼女の心に「出家」の思いが兆したのはこのころからではなかろうか。

 


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