源氏物語

源氏物語たより482

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   『源氏物語』あはれ考  源氏物語たより482

 (巻名)  (回数) (ページ数)  (率 %)    (巻名)   (回数) (ページ数)  (率 %)
桐壷    11    24     45      初音     8     14    57
帚木    19    51     57      胡蝶     9     18    50
空蝉     4    11     36      蛍      7     20    35
夕顔    26    51     51      常夏     3     24    12
若紫    26    55     47      篝火     2      4    50
紅葉賀    6    28     21      野分     5     19    26
花宴     2    10     20      行幸     8     29    28
末摘花   10    33     30      藤袴     8     15    53
葵      24    61     39      真木柱   21     39     54
賢木     39   47     82      梅枝     4     20     20
花散里    4    4    100       藤裏葉   11    24     46
須磨    36    43     84      若菜上   51   103     50
明石    28    39    72       若菜下   33   101     32
澪標    26    32    81       柏木    34    41     83
蓬生    15    23    65       横笛    21    19    110
関屋     3     5    60      鈴虫     10    41     24
絵合    13    17    76      夕霧     33    74     45
松風    13    21    62      御法     15    18     83
薄雲    18    31    58      幻      14    21     67
朝顔    15    21    71
乙女    18    52    35   
玉鬘    20    45    44      全体    678  1348   50,3

  この表は、源氏物語の『桐壺』の巻から、光源氏が物語から姿を消そうとする『幻』の巻までの「あはれ」という言葉の回数の統計を取ったものである。最初の数は、それぞれの巻に出て来る「あはれ」の回数を、二番目の数字は、その巻のページ数を、最後の数字は巻全体のページに占める「あはれ」という言葉の頻度を表している。なお使用書籍は岩波書店の『日本古典文学大系』である。
  たとえば、『花散里』の巻の「100%」とあるのは、この巻の4ページすべてに「あはれ」が出て来るということであり、『若菜上』の巻の「50%」というは、2ページに一回は「あはれ」が使われているということを表している。
  したがって、最もしばしば使われていう巻は、『横笛』の110%で、以下、二位が『花散里』、三位が『須磨』、四位が『御法』、五位が『柏木』、六位が『賢木』ということになる。 
全体では、50・2%にのぼり、二ページに一回は登場するということなので、これは異常なほどの頻度なのではあるまいか。源氏物語に先行する『宇津保物語』や『落窪物語』については調べてはいないが、おそらくはるかに高い頻度であろうことが予想される。
  
 なぜこんな面倒なことを試みたかと言えば、私が源氏物語を読むときの重要な観点として「あはれ」を視点に置いているからである。「あはれ」は、やはり源氏物語に流れる最大の主題であると思うのである。
 本居宣長も、源氏物語の本意は「もののあはれ」であるとしているし、私もそれ以外にないと思っている。もっとも現在では宣長の説に疑問を呈している人がいたり、源氏物語の主張は「もののあはれ」だけではないと言ったりしている人も多いようであるが。
「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、「もののあはれ」とは
   「平安時代の文学、生活の美的理念。本来は、もの(対象)によって人の心に呼び起こされるしみじみとした感動を意味する。人生の不如意に基づく哀歓を基調とし、感情主体によって人事、自然界の事象が共感されるとき、そこに対象と主体の調和が意識され、「もののあはれ」が成立する」
ということである。概ねこれでいいとは思うが、「もののあはれ」は必ずしも「人生の不如意に基づく哀歓を基調にし」たものだけではない。もっとはるかに多様である。
  端的に言えば、我々が目に見、耳に聞く対象(事象)から受ける哀しい、寂しい、愛しいい、可愛い、気の毒だ、などと言った感情のことである。
  ただし、あくまでもしみじみと胸を打つような感情であって、嬉しい楽しい喜ばしいなどと言った明るい感情は「あはれ」の範疇に入らない。例えば、野球の試合で、九回の裏、ツーアウト、逆転サヨナラホームランなどは、いくら胸を打つほどの感動であったとしても、「あはれ」ではない。太陽を見て「あはれ」を感じる人はいないだろうが、月を見れば「あはれ」の感情が呼び起こされる人も多いだろう。その底流にはあくまでも「しみじみとした情趣」が存在しなければならないのだ。
 
   では、我々の世で「あはれ」を呼び起こすような事象としてはどんなものがあるだろうか考えてみよう。すぐ思い浮かぶのは「別れ」であろう。中でも死別は最も強く「あはれ」を誘うものである。生別でも、愛する人との別れなどは一入である。そのほか、自然(季節)の推移、時勢の変化、男女の愛(特に失恋)、幼子への情愛、また日常とは変わった特別・特殊な事象などもこの中に入る。
  源氏物語が「あはれ」を本意とする限り、自ずから男女の愛の問題が多くなるのは当然のことで、それに伴う失意や疑惑や嫉妬や恨み・そねみ、あるいは別れなどがドラマを展開させる要因になるからである。
  源氏物語のみならず、平安時代の文学は「恋の成就」や「恋の歓喜」などは問題にしていない。そこにはしみじみとした情趣がないからである。古今集の恋の歌などは、ほとんどすべてが望みかなわぬものばかりである。
 『乙女』の巻で、夕霧と雲居雁は熱烈な恋をするが、かなわぬ恋である。「藤裏葉」の巻に至ってようよう二人の恋は成就するのだが、その後の彼らの結婚生活が描かれることはない。二人の間には七人も子供ができたというのに、そんなことは一切描かれない。家庭のハッピーなどは誰も期待していないからである。夕霧が再び物語に華々しく登場するのは『夕霧』の巻である。ここで、彼は落葉宮とわりない恋に陥る。読者の求めるものは、そういうわりない恋なのであって、辛く侘しく切ない恋にこそ「あはれ」があるのである。

  それでは、あらためて「あはれ」の頻度が高かった六つの巻を見てみることにしよう。
 『横笛』の巻は、柏木の死後、彼にまつわる横笛の伝授にかかわる物語であり、『花散里』の巻は、源氏が須磨に流れていく直前の別れの場であり、『須磨』の巻は、源氏の生涯最大の失意の時期、それは都の多くの女性方との別れのドラマである。『御法』の巻は、源氏最愛の紫上の死を扱ったものであり、『柏木』の巻もまた柏木の非業の死の物語である。『賢木』の巻は、六条御息所が愛する源氏と別れざるを得ず、失意のうちに伊勢に下向する物語であるとともに、桐壷帝の死や藤壺宮の出家などが扱われる。
  まさにこれら上位に位置する巻は、愛と死と別れの曼荼羅模様なのである。

  私は、せっかく労を惜しまず巻ごとの「あはれ」の頻度を調べ上げたのだから、これをさらに詳細に分析してみようと思っている。また、『宇津保物語』や『落窪物語』の「あはれ」も調べなければいけないし、もう一度、本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』を読んでみて、彼の主張するものが何であったのかも読み取らなければいけない。今後その結果を源氏物語読みの参考にしていきたいと思っている。

   ※『枕草子』には、「あはれ」という言葉は少ない。清少納言という人の、なんでももの・ことを明るく捉える性格に起因しているのだろうか。


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