源氏物語

源氏物語たより495

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     朱雀院の無念   源氏物語たより495

  光源氏と権中納言(元の頭中将)との政権争いは、「絵合」と言う雅な形で展開されたわけではあるが、その実態はドロドロしたもので、自分の娘をいかに中宮にするか、いわば中宮位を巡ってのものであった。源氏には実の娘がいなかったために元斎宮を養女として、冷泉帝の女御(梅壺女御 以下斎宮)としていた。
  この斎宮は、朱雀院が大変ご執心の女性であったが、源氏・藤壺宮の連合軍の策略により冷泉帝に入内してしまった。院は、斎宮が伊勢に下る時の式典で、その美しさに心を打たれ、その任が解けて帰京した時に、自分の元に入れることを強く願っていた。その思いは、彼女が冷泉帝に入内した後もまだ消えてはいなかった。
  帝の前で「絵合」が行われることを知った院は、斎宮に肩入れすべく、昔から伝わる優れた絵や、あるいはわざわざ当代一級の絵師を招いて描かせた「四季の絵」などを贈ることにした。
  四季の絵には、斎宮が伊勢に下る時、大極殿で行なわれた儀式の様子が描いたものも含まれていた。それらの絵が、優雅に透かし彫りされた沈の箱に入れられ、華やかな心葉(こころば 銀や銅で作った花鳥の飾り)まで付いている。これだけでも院の、梅壺女御に対する並々ならぬ思いが伝わってきて、未だに未練を断ち切れないでいる様がよく表れていた。
  さらに、これには院の次の歌が添えられていた。
  『身こそかく標の外なれ そのかみの心の内を忘れしもせず』
  「標(しめ)の外」とは、「今ではもう内裏の外にいる」ということで、
  「今では天皇の位を辞している身ではありますが、未だにあの大極殿で行われた儀式のことは忘れることはできません」
と言う意である。もちろん彼が斎宮に言いたい真意は「あの時、あなたに強く心惹かれた気持ちは、いまでも消えることはありません」ということである。
 
  これに対して、斎宮から歌が返される。しかし、それは、ごく当たり前のことを詠ったもので、感情の籠らないものとしか我々には感じられない歌なのだが、院にとっては
  『かぎりなくあはれ、と思すにぞ、ありし世を取り返さまほしくおぼしける』
ほどのものであった。「あはれ」は、いろいろの感情を表す言葉であるが、この場合は、まさに「愛しい、恋しい」という感情である。情の籠らない歌でも、愛する人のものは、すべてが「いとおしい」ものに思えてくるのは、今、昔を問わないようである。
  「ありし世を取り返さまほし」とは何とも切実、深刻である。もし自分が帝位についていたならば、源氏・藤壺宮連合軍の策略に簡単に負けてしまうようなことなどなかったはずだ、「ああ、標の中よ」という嘆きである。
  この院の言葉の後に、語り手はこう言っている。
  『おとどをも、つらしと思ひ聞こえさせ給ひけむかし』
  「おとど」とは源氏のこと、「けむ」は「きっとそうだろう」という過去推量の助動詞、また「かし」は詠嘆の助動詞である。源氏のことを「ひどい奴!なんと無情なことをする男か・・」と思ったに違いない、と語り手が院の心中を忖度して嘆いて見せたのである。
  今まで、源氏は、院の思いを悉く破ってきた。朧月夜への院の寵愛を奪ってしまったことなどは特筆されることである。帝としての矜持も尊厳も失う出来事であった。また、物語には詳らかには描かれていないことなのだが、朱雀院は、幼いころから何をしても源氏には勝てないという劣等感を持ち続けて来たのではあるまいか。それが陰に陽に院への圧迫になっていたのだ。
  そしてついに帝位さえ源氏への思惑から放棄せざるを得なくなってしまった。直接的には自らの眼病が譲位の引き金になっているとはいえ、源氏を結果的に左遷させたことが重荷になっていて、それが眼病を引き起こしたと言えなくもない。これ以上位に就いていたら、彼にとってはカリスマ的な存在である源氏の報いを受けるかもしれないのだ。物語では
  『過ぎにしかたの御報いにやありけむ』
と言っている。冷泉帝は源氏の絶対的な庇護のもとにある。冷泉に早期に譲位することは、源氏への贖罪であったと言っていいかもしれない。哀れな帝であった。

  朱雀院の悲憤は、物語上のものであるが、このような例は歴史上でも無数に起こっている。安閑として位を全うした天皇など一人としていなかったのではなかろうか。特に紫式部が生きた時代にはこのような例が頻発している。みな藤原氏の血脈間の争いに翻弄されたものである。
  紫式部が仕えた一条天皇の母・詮子の夫・円融天皇がそうだ。藤原兼家(詮子の父)の有形無形のあくどい圧迫によって譲位をやむなくさせられている。その次の花山天皇も、藤原兼家によって在位中にもかかわらず出家させられている。謀られたことを知って戻ろうとしたが、神器はすでに兼家の手にあった。
  紫式部に一番近い例としては、三条天皇(在位1011~1016年)がある。この天皇は、藤原道長によって強引に譲位させられたのだ。道長の娘・彰子の子(後の後一条天皇)を一日も早く位に付けたいがために、道長は、三条天皇の眼病にこと付けて、譲位を迫ったのである。彼の無念は百人一首として残っている。
  『心にもあらで憂き世に永らへば 恋しかるべき夜半の月かな』
  「天皇退位の直前の心境を詠ったもので、澄み切った夜半の月だけが友と言える、暗く孤独な気持ちが表されている。(文英堂 『新国語便覧』)」

  三条天皇の御代には、紫式部(生年、没年とも不明 1014年ころあるいはその後十年のという説もある)は源氏物語を書き終わってしまっていたか微妙であるが、三条天皇の眼病と言い、道長からの圧迫といい、譲位のあり方といい、源氏物語の朱雀院そのものである。少なくとも円融天皇や花山天皇の史実が源氏物語に影響を与えたであろうことは疑う余地はない。


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