源氏物語

源氏物語たより501

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     見えない紫上の「人となり」  源氏物語たより501

  源氏物語の中心人物であるというのに、紫上という人の「人となり」が掴めない。藤壺宮の姪と言うだけでなく、子供の頃の紫上は、光源氏が
  『かぎりなう心を尽くし聞こゆる人にいとよう似たてまつれる』
のだから、さぞ美しい少女ではあったのだろうが。
  源氏が「かぎりなく心を尽くし聞こゆる人」とは、もちろん藤壺宮のことで、源氏の目からは、この宮は何の欠点もない理想的な女性である。紫上が成長してからも、源氏は、いつも彼女を宮に重ねて見ているから、紫上もやはり理想的な女性であったのだろう。
  では、どこがどう理想的であるのかとなると、どうもおぼろで、頼りない。もっとも藤壺宮自体もどのような所が理想的であるのかとなると、これもおぼろなのである。
 
  『野分』の巻に、源氏の嫡男・夕霧が、嵐の紛れに紫上を垣間見るシーンがある。彼の目に映った紫上の姿は
   『気高く、清らに、さと匂ふ心地して、春のあけぼのの霞の間よりおもしろきかば桜の咲き乱れたる』
ように見えたというのだが、この描写から彼女の「人となり」を思い描くことはできない。もし想像できるという人は、相当感性の研ぎ澄まされた人と言えるだろう。
  「気高く、清ら」というのは分かる。ただ、当時の上級貴族の女性というのは、概ね「気高く、清ら」だったのではなかろうか。だからこれをもって紫上の「人となり」を特定するには無理がある。
  まして「霞の間よりおもしろきかば桜の咲き乱れたる」となると、杳として分からない。「ぱっと明るく華やかな感じの人」とでも言いたいのだろうか。しかしそうなると「霞の間より」が引っかかってしまう。「ぱっと明るく華やかではあるが、それを丸出しにはしない」ということだろうか。とにかくこのシーンだけでは、彼女の姿ははっきりとは浮かび上がってこない。夕霧は彼女を垣間見て、「心臓がバクバクしてしまって止まらないほどであった」というのだから、さぞ美しい人なのだろうが。

  それでは、紫上の人となりについて描写されているところを無作為に挙げてみよう。

  『(源氏が琴を教えると)いと聡く、かたき(難しい)調子どもをただひとわたりに習い取り給ふ。大かたらうらうしう(利発)、をかしき(優れた)御心ばへ』                                                          ~紅葉賀~
  『心ばへのらうらうしく、愛敬づき、はかなき戯れごとの中に、美しきすじ(優れた技量)をしいで給へば』      ~葵~
  『懐かしう(人の心を引きつけ)をかしき御有様にて、まめやかなる御心ばへ(実生活面での女房達への心遣い)も、思いやり深くあはれ(優しい)』                                                            ~須磨~
  『(源氏は紫上の姿を)なほ、たぐいなくこそは、と見給ふ。ありがたき(めったにない)ことなりかし。あるべきかぎり気高うはづかしげに(立派に)整ひたるに添ひて、はなやかにいまめかしく匂ひ、なまめきたるさまざまの香りも取り集め、めでたき盛りに見え給ふ。去年より今年はまさり、昨日より今日はめづらしく、常に目馴れぬさまし給へる』                    ~若菜上~

  紫上の「人となり」を表しているのは、この程度であろうか。とにかく彼女の人物描写は抽象的で貧困なのである。
  上記の描写から、彼女の特性として分かることは、聡明であること、人に対して優しいことくらいであろう。後は誠に朦朧としたもので、明確な人物像が出てこない。
  特に『若菜上』の巻の、源氏による評価は、賛嘆一筋で、まるで法華経の仏讃嘆を見るが如しで、実態がない。「気高く立派に整っていて、華やかで現代風。色艶よく、めでたき盛りで、一日一日新鮮になり勝って行く」というのだから、間違いなく理想の女性ではあろう。
  ただ、彼女が「華やかで現代風」とは、今まで思いもしなかった特性である。もっとしっとりした理知的な人かと思っていた。『澪標』の巻には
  『いとおほどかに(鷹揚で)美しうたをやぎ(しとやか)給へる』
とあったのだが、十数年たつと人ざまも変わってしまうというのだろうか。

  一番分からないのが、『薄雲』の巻である。
  源氏は、明石君から姫君を取り上げ、紫上に養育させることになった。それ自体は、仕方のないことで、受領風情の娘で明石育ちの明石君に、将来の「后がね」を育てさせるわけにはいかないのだから。
  問題なのは、明石姫君を紫上が喜んで受け入れたことである。「子供をこよなく可愛がる人柄であるから」という一言で、そこには何等の葛藤もないのである。これではあまりに唐突すぎないだろうか。
  それは一歩ゆずるとしても、考えられないのは、明石姫君は、夫(源氏)の愛人の子供なのである。いくら子供が好きだからと言っても、愛人の子をそんなに素直に引け受けられるはずはないのではなかろうか。紫上がいくらできた人であると言っても、そういう親子関係は、当時はやりの「継子・継母」物語になってしまうはずだ。
  そればかりではない、今まで源氏が大井の明石君の所に渡って行くことをひどく嫉妬し、源氏と危うい関係になりそうにもなったというのに、姫君を預かってからというもの、源氏がいくら明石君に手紙を書こうが
  『今はことに怨じ聞こえ給はず。美しき人(姫君)に、(源氏の)罪ゆるし聞こえ給へり』
という具合なのである。
  さらに、源氏がこの上ないほどに身づくろいをし、香を焚き染めて大井にわたって行っても、「ただならぬ気持ちで」送りはするものの、美しい姫君に免じて明石君に嫉妬さえしないというのである。それどころか、
  『(姫君を)ふところに入れて、美しげなる御乳をくくめ給ひつつ、戯れゐ給へる』というのだから、この人の神経は一体どうなっているのだろうかと、疑問が湧いてきてしまう。

  あの用心深い紫式部が、どうしてここでは伏線を設定しなかったのだろうか。たとえば、結婚して二十年も経つというのに、子供が生まれないことを嘆いた紫上は、
  「誰の子でもいいから預かって養育してみたいと常々考えていた」
というような一文があってもよかったのではなかろうか。あるいは
  「夜な夜な胸をさすっては“源氏の子が欲しい”」
というような一文でもいい。そうなれば「美しげなる御乳をくくめて」という彼女の不可解な行動も納得でるというものである。

  紫上が源氏物語のヒロインであることは疑う余地はない。にもかかわらず、その人物像となると意外に掴めないのである。はっきりしているのは、源氏がしばしば言っているように「嫉妬深い」性格くらいであろうか。しかしそれも源氏が無理に彼女に嫉妬させる場を作るからである。源氏にそういうふうに思われることを、彼女自身はひどく嫌がっているのだ。嫉妬深さは彼女の特性ではない。
  葵上にしても六条御息所にしても朧月夜にしても、みなその「人となり」が鮮やかに描かれているというのに、肝心な紫上と藤壺宮については、それがない。
  あるいは、これも紫式部の計略なのかもしれない。つまり理想的な存在をあまりに生々しく鮮烈に描いてしまうと、
  「その程度の女性でも理想的な女性と言えるの?」
という批判を読者から浴びてしまうかもしれないことを怖れて。



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