源氏物語

源氏物語たより504

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    源氏物語の自然   源氏物語たより504

  今日(27年1月11日)珍しく思わぬ雪が降った。横浜は四センチの積雪であるというから、このあたりでは五センチほどであろうか、それでも庭木が雪の重みにしなってなかなかの風情を見せている。雪というと何かしみじみと懐かしく、また心が弾むような気がして子供の頃を思い出させる。雪は懐旧の情をもよおしこの世の外に思いを馳せさせると言うが確かである。それもみな天のなせる業と思うからであろう。
  私の知人に、新潟の十日町出身の人がいる。十日町は豪雪地帯である。彼はよく言ったものである
  「関東の人は雪が降ると喜ぶけれども、私などは子供の頃は 雪は魔物と思っていました。だから雪解けの時期が待ち遠しくて・・」
  同じ雪でも、人によってさまざまな思いを抱かせるようである。

  枕草子や源氏物語にも雪はしばしば登場する。しかし二人の作家には明らかな違いがある。清少納言は、雪を極めて客観的に詳細にしかも鋭敏に観察して、その情趣を素直にストレートに讃嘆する。  
  『雪は、檜皮葺、いとめでたし。少し消え方になりたるほど。また、いと多うも降らぬが、瓦の目ごとに入りて、黒うまろに見えたる、いとをかし』  大系本第251段
  最後の情景は、瓦の、降った雪に覆われていない部分が、雪に縁どられて丸く黒く浮き出て見える様子を描いたものである。実にきめ細かな観察であり、それを見たままありのままに描いている。
  また87段などには、彼女の例の「鼻高々の得意」が面目躍如に表われいている。師走の十日余りに降った雪で、女房たちは雪の山を造る。彼女らは「この山がいつまで消えずに残るか」と当てっこをする。ほとんどの者が、「十日ほど」だとか「十余日まで」だとか、せいぜい「年の内まで」などと言う中で、清少納言だけは
  「いや、一月十余日までは残っている」
ととんでもないことを言い出す。ところがこれが当たってしまう。このことを一条帝や定子中宮を交えて、面白おかしく描くのである。
そういえば、有名な「香炉峰の雪は、簾を撥(かか)げて看る(299段)」も、彼女の自慢話である。とにかく彼女の筆にかかるとすべての自然が明るく輝きだす。

  ところが紫式部は、同じ雪を描いても、雪そのものをストレートに描くことをしない。常に人の心に重ねて雪を見ているのである。『朝顔』の巻に
  『雪のいたう降りたる上に、今も散りつつ、松と竹とのけぢめ、をかしう見ゆる夕暮れに、人(源氏)の御かたちも光まさりて見ゆ』
という書き出しで雪が登場する。「松と竹とのけぢめ、をかしう見ゆる夕暮れに」などは、雪の情趣を描くのかなと思っていると、実は雪は源氏の姿を引き立たせる役目をするものとし挙げられているのである。この後、雪に関して、
  『(一般的には、人が魅力を感じるのは、春の花であり秋の紅葉であろうが)、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、面白さもあはれさも残らぬ折なれ』
と源氏の薀蓄(うんちく)が縷々(るる)述られていく。そして、彼は御簾を巻き上げて庭のさまを仰視し、
  『月は隈なくさし出でて、(雪と)一つの色に見えわたされたるに、萎れたる前栽の影心苦しう、遣水もいといたくむせびて、池の氷も、えも言はず凄きに、』
と雪と月の情趣から、前栽の萎れた草木や、凍って流れわびている遣水の水や、ぞっとするように凍りついた池にと、彼の目は移って行く。月と雪の織りなすコラボレーションから、何か侘しく切ない世界に変わって行く。
  彼は、女童たちを庭に下ろして「雪まろばせ」をさせる。童たちが大きな雪の玉を作ろうとはしゃぎまわる姿を見つめながら、彼は過去に関係した女性たちに思いを馳せていく。そして、紫上に、故藤壺宮のことや故六条御息所のこと、あるいは朧月夜や朝顔の君のことなどを語って聞かせるのである。雪が「この世のほかのことまで思い出させる」からであろうか、亡き人のことも今いる人のことも次々思い出しては、その女性たちの優れていたところ、問題に思うところなどを、熱を込めて紫上に語り続けていく。紫上は寂しく聞いているだけである。
  聞き終わった時に、紫上は、澄み渡った月を見ながら、ぽつりとこんな歌を詠む。
  『氷とぢ岩間の水は行きなやみ 空澄む月の影ぞ流るる』
  「岩間の水」は紫上のこと、「月」は源氏。
  「空に浮かぶ月のように源氏さまは自由にどこへでも流れて行くけれども、私はあの遣水の水のように凍りついて行くべき方もありはしない」
という意味であろう。
  実はこれ以前に、源氏は紫上の心を慮ることもなく、朝顔の君に大変な御執心を示して、紫上には夜がれを続けていたのである。そういう罪があるというのに、雪が大層降ったからと言って、次から次へと過去・現在の女性の話を続けていくのだからたまらない。紫上がやるせない思いに駆られるのも当然のことである。
  しかし源氏は、そんな寂しい思いを吐露している紫上の気持ちなど顧慮しようともせず、その姿を、「他に似るものがないほど美しい」と見、紫上の姿に故藤壺宮の面影を重ねるのである。これでは「岩間の水は行き悩む」しかない。雪は、結局紫上に哀しい思いを誘因させる事象でしかなかった。

  このように源氏物語の雪(あるいは自然)は、雪そのものを愛でたり鑑賞したりするものではない。過去やこの世のものでないものに思いを馳せる「つま」として使われるのである。
  『末摘花』の巻でも、雪が重要な役割をしていたが、やはりあの時も、雪そのものの価値などを対象となるものではなかった。雪は末摘花という女性の醜さをクローズアップする道具として使われていたのである。雪で明るく照り輝く廂にわざわざ末摘花を誘って、彼女の異常なほどに高い鼻や痩せさらばえた肩の骨を白日にさらしたのである。

  源氏物語の自然はすべて人に繋がるもので、清少納言のように素直にあけすけに自然を謳歌したり賛美したりはしない。
次回は『薄雲』の巻で見てみよう。


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