源氏物語

源氏物語たより32

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  紫上哀れ 序曲  源氏物語たより32

 『松風』は、『野分』と並んで私の好きな巻である。哀しくも美しい響きが全篇に流れている。
 
 『松風』の次の『薄雲』の巻に、不思議な場面がある。紫上が、光源氏と明石の君との間に生まれた明石姫君(二歳九か月)をふところに入れて抱いているところである。


 『うつくしげなる御乳をくくめ(ふくませ)たまひつつ、たわぶれゐたまへる』
 紫上は、世にもまれな気品にあふれた美しい女性である。源氏の息子、夕霧がその姿を垣間見て「心臓がどきどき高鳴りした」ほどである。その人が、おそらく小袿姿だろう、その襟をはだけて、美しい乳房を出し、乳を含ませているという。誠にエロチックで妖艶であるとともに、何か凄絶な哀しさが漂っている。彼女は子供は産んだことがないのである。この行為をどう理解したらいいのだろうか。

 それでは改めて『松風』からみていってみよう。
 源氏は、流謫の身でありながら、明石で元受領だった明石入道の娘・明石の君と契りを交わし、子供まで宿させる。
 源氏が罪を許されて京に帰った後、明石の君と姫君が、随分久しくして大堰川のほとり(現在の渡月橋あたり)の邸に移ってくる。長年逢っていないので、源氏とすれば、すぐにも飛んで行きたいところなのだが、二条から大堰までは相当の距離があるし、内大臣という立場も窮屈で、出歩きは思うに任せない。それに何よりも紫上への配慮がある。そのため、なかなか明石の君と姫君に会いに行くことができないでいた。

 それでも、紫上に、あれこれと理屈を言ってようやく出かけることになった。紫上は、源氏がそこに女を置いているのだろうと思うと面白くない。そこでこう言う。
 『斧の柄さへあらためたまはむほどや、待ち遠に』
 「斧の柄さへあらため」とは、中国の故事からの引用で、「長い間」という意味である。どうせ私のことなど忘れて、その女のところに長いこといらっしゃるのでしょう、待ち遠しいことですわ、という皮肉である。紫上は、優しくたしなみがあり、思慮深い女性である。自己主張などしない人なのだが、ここでは辛辣な皮肉が思わず口から出てしまった。過去にも、源氏の女性関係ではなんどもつらい思いをさせられている。
 源氏は、「二、三日で帰る」と言って出て行ったが、身だしなみもいつもとは違っていたから、おそらくしばらくは帰ってこないだろう。
 案の定、源氏は約束の二、三日を、二日もすぐした四日目に帰ってきた。紫上が不機嫌そうなのを見て、源氏はあれこれ慰めて、こう言う。
 『なずらひならぬほどを思しくらぶるも、わろきわざなめり。我は我と思ひなしたまへ』
 (明石の君は、あなたとは比べものにならないほどの身分なのだから、それと比べるなんてよくないことです。自分は自分と思ってしゃんとしていればいいのです)
 しかしこれは、なんとも身勝手な源氏の論理である。紫上とすれば、
 「いくら相手は身分が低いとはいえ、素晴らしい資質や教養や趣味をもっているのでしょ、だから愛するようになったのでしょう。もしそうだとすれば、自分はこれからどうしたらいいのでしょう」
と思うはずだ。

 この後、源氏は、明石の君に子供ができていることを告げる。しかも、
 「姫君が、受領の娘の子供として育てられるのでは、今後ともいろいろな面で具合が悪い、ついてはあなたが育ててくれないか」
と紫上に申し出るのだ。なんという申し出であろうか。愛人の子を育てよと言う、言外には、「お前には子供がないから」という含みがある。子供ができないことに大きな負い目を感じていた紫上にとっては、大変なショックだったはずである。
 ところが、結局、「子供が好きだから」ということで、紫上はこの申し出を承知してしまう。源氏の事実上の正妻格である紫上が、なぜ乳母まがいのことをしなければならないのか。なぜ少しでも拒否の姿勢を取ろうとしないのか。いつも源氏の言いなりになっていていいのだろうか。

 この後、『薄雲』の巻では実際にこの姫君を育てることとなる。
 ある時、源氏が、
 『常より殊にうち化粧じ(念入りにおめかしし)たまひて、桜の御直衣にえならぬ(言いようもないほど素晴らしい)御衣ひき重ねて、(香を)たきしめ、装束着たまひ』
て、大堰の明石の君のところに行くことになった。その姿を
 『女君(紫上)、ただならず見たてまつり送りたまふ』
のである。
 うつくしげなる御乳をくくませたのは、この時のことである。源氏に対しては言うべき方法を持たない彼女が、出もしない乳をふくませたという行為は、単なる「たはぶれ」ではなく、ひょっとすると源氏と明石の君に対するはかない恨みそねみの表現であり、無意識の抵抗であったのかもしれない。
 源氏が大堰に出かけるようとしている時に詠った歌が哀しい。
 『舟止むるをちかた人のなくはこそ あすかへりこん夫(せな)と待ちみむ』
 (舟(あなた)を引き留める向こうの人がいないのだったら、「明日は帰ろう」と言うあなたの言葉を信じて、明日帰られるのをお待ちしてもいいのでしょうが、どうせあちらにはいい人がいるのでしょうから・・)
 源氏物語に登場する女性の中で、源氏に最も愛され、信頼され、一番幸せであるように見えた紫上が、実は最も自由を束縛され、自分の意志を表現できない女性だったような気がする。

 “紫上哀れ”の第二楽章は、『朝顔』の巻で早速奏でられるし、八年後『若菜上』の巻で、不安と不信と疑惑との哀しいメロヂィーに乗って最終楽章が奏でられることになる。
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