源氏物語

源氏物語たより506

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    「帚木」の巻の罪   源氏物語たより506

  源氏物語を十八回も読んできて、未だに理解できないのが『帚木』の巻である。ここの巻に至るたびに、自分の能力の至らなさを思い知らされ、暗い気持ちにさせられる。しかし、どんな解説書、どんな訳書を参考にしてもこの巻の内容は理解できないのだから、あるいは私の能力の問題ではないかもしれない。『帚木』の巻が持つ文章上の欠陥なのではなかろうか。
  この度、早稲田大学名誉教授・中野幸一氏の訳書(『正訳源氏物語』 勉誠出版)が出版された。「正訳」とある限り、源氏物語が正しく訳され、さぞ我々にも理解されやすいように訳されているものと期待していた。事実「です、ます」調の易しい語り口で流れるような見事な訳である。しかし、『帚木』の巻ばかりは、内容をスムースに理解することができなかった。やはりこの巻の文章に問題があるのだ。
  『桐壷』の巻は、帝による桐壷更衣の過度な寵愛、それによる他の女御・更衣たちの嫉視といじめ、光源氏の誕生と更衣の不遇の死、母の面影を求めての藤壺宮への源氏の思慕、という具合に物語は軽快なテンポで進んでくるのだが、『帚木』の巻に入るや、この軽快さは頓挫してしまい、大渋滞を引き起こす。それも偏(ひとえ)に左馬頭の饒舌がゆえである。
 
  この左馬頭の饒舌が、源氏物語に取り返しようのない罪となってしまった。左馬頭の長広舌が源氏物語をして「なじめない物語」という印象を与えてしまったと私は思う。
  源氏物語はそれでなくても難解な書である。しかし、馴れればその見事なほどの流れに感動こそすれ、「暗い気持ち」にさせられることなどはない。何度読んでも飽きさせないし、読むたびに新鮮な発見があり、胸の高鳴りを覚える。もちろんその難解さには変わりはないのだが、『帚木』の巻がなければ、まだ「難解な書」という印象は薄まるはずだ。
  そして、なにより問題なのは、この『帚木』の巻が第二巻目にあるということである。源氏物語の原文を読んでみたいという殊勝な心がけで挑戦した途端に、超難解な『帚木』の巻に遭遇してしまうのだ。登り出した途端に、ヒマラヤのような雪の嶺が厳然と聳え立っているものだから、あたかも殊勝な読者に近寄ることを阻んでいかのような印象を与えてしまう。よく
  「須磨帰り」
ということが言われる。源氏物語の原文読みに挑戦してみたものの、あまりの難しさと長大さに、全体の五分の一ほどの『須磨』の巻で、読むのを諦めてしまってまた初めに戻ることを言う。まさに源氏物語を言い当てて妙なる比喩だ。
  実は、『須磨』に至るまでに大きなダメージを受けているのだ。それが『帚木』の巻なのである。この巻に触れた途端に、「なんという難しい物語なのだろう」という印象を持ってしまい、その後にも『末摘花』などの難解な巻が控えている。当初の意気込みも、このあたりで相当くじけてくる。そして『須磨』の巻で、源氏が須磨へ流れて行くにあたっての悲惨な気持ちが執拗に繰り返されるところで、「くじけ」は重体に陥ってしまう。そしてみな源氏物語から離れていくのだ。それもみな『帚木』の巻の咎といえるのである。

  左馬頭の話は、不要な例示があったり、重複があったり、余計な挿入があったり、時に支離滅裂になって論理として成り立っていなかったりで、「晦渋」とはこういう話し方を言うのであろうと思うほどの混乱ぶりである。
  彼の話は、いわゆる「雨夜の品定め」で、縷々展開されるのだが、実は彼の「品定め」の話が本格的になされる以前に、頭中将の話があり、これがまた問題なのである。彼が「理想の女性(妻)とは」という話を源氏に語るところに、既に難解さの芽は萌(きざ)している。それでは頭中将の話を整理して見てみよう。

  ① 欠点のない女などはめったにいないものだと、最近分かってきた。
  ② 表面的にはすらすらと美しい文字を書き、時々の応対も見事と思える女はいるのだが、では本当にその面(書や応対の面)    で優れている女となるとなかなか見つけ出せないものである。
  ③ 自分の得手の分野においてはしたり顔で、その分野で他の者が少しでも劣っていたりすると、それを悪しざまに言いなす女    があるが、もってのほかである。
  ④ 深窓に育った娘などは、その娘の一端だけを聞いて男が心を動かされることがあるもの。
  ⑤ 容貌が良くておっとりしていて若くて、他の雑事に紛れることがない娘は、ちょっとしたすさび事でも、人真似しているうちに、    自然に一つぐらいは芸が身に付くものだ。
  ⑥ 娘の世話をする人は、娘の欠点は隠して、いい点ばかりを誇張して言うもので、「そんなことはるまい」といくら言ったところ     で、本人を見ていないのだから、どうにもならない。
  ⑦ 「本当だろう」と思って、娘と結婚などしてみると、それが想像外の結果になることがあるものだ。
  ⑧ そもそも一つの才能もないような女の所に、誰がだまされて近寄るものか。
  ⑨ どうにもならない女と優れた女は、同じくらいの率で、いずれも少ない。
  ⑩ 家柄のいい娘は欠点も隠されるので、自ずからその娘の気配はこの上なく立派に見えて来るものだ。
  ⑪ 中流の女にこそ、その人の主義・主張がはっきり出ていて、善し悪しの区別がつけやすいのではないか。

  これらの論理のうち「確かに」と思われるものは、①、③、④、⑥くらいのものであろう。但し①の「何も欠点のない女などはいない」というのは当然のことで言うまでもない。「完璧な女」などいるはずはない。
  ③のような「自分の得意分野ばかりは高慢で・・」というような女はいないでもないが、そう多くいるものではない。④や⑥についてもクレームをつけたいところだが、今は置こう。
  ⑤の「容貌が良くておっとりしていて若くて」という部分は余計で、かえって論理を混乱さている。⑧や⑨は言わずもがなであるが、率から言えば「優れた女」の方がより少ないのではないだろうか。⑩は、⑥と重複している。⑪については、現代では、上流、中流の差がないから議論のはさみようがないが、もしあったとしても上流階級の女の方がしっかりした主義・主張を持っているのではなかろうか。
  このように、頭中将の話は、重複があったり、余計なところがあったり、言わずもがなのことを言っていたりで、論理とすれば、混乱しているというしかない。それになにより①から⑪に至る論理が繋がっていないことが問題なのである。一つ一つの話には頷けないこともないのだが。

  この後、左馬頭の話が始まる。彼の話は、頭中将の話に輪をかけたように論点が取りにくくなる。とにかく晦渋でくどい。源氏が、彼が話しをしている時に、
  『君のうちねぶりて、言葉交ぜ給はぬを』
とか、
  『君も目をさまし給ふ』
とかあるのは、左馬頭の話がくどいので、聞いていられなかったのだろう。左馬頭の話の晦渋さについてはここでは触れないが、要は彼と頭中将がよってたかってこの巻を難解にし、面白味のないものにしてしまったのだ。
  「源氏物語は、世界に誇るもの」、「千年も前の女性がこれほどの傑作をものしたというのは日本人の宝」といくら称賛してみても、『帚木』の巻が、厳然と立ちはだかって読者を阻んでいるかぎり、日本人の誇りにはならないし、宝にもならない。

  私はいつも思う、源氏物語を原文で読もうとする殊勝な心がけの人に、
  「『帚木』の巻は、積極的に飛ばして読みましょう」
と。そして
  「この巻は、空蝉が登場するところからのんびり読んでいけばいい」
と。


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