源氏物語

源氏物語たより510

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     虚仮にされる漢学者   源氏物語たより510

  光源氏の子・夕霧は、大方の予想に反して、大学に入学することになった。そればかりではない、位も六位にとどめられたのだ。源氏の考えからこのような措置が取られたのである。源氏はこの時、内大臣で、政の中心人物であるばかりか、最高の権勢の持ち主であった。したがって、自分の息子を五位にしようが四位にしようが、人事などは自由自在であったはずだ。

  この源氏の措置を不満に思った者が二人いる。もちろん一人は夕霧本人で、六位では「浅葱」の衣を着なければならないし、自分の従兄妹たちも多くは五位あたりからスタートしているのだ。「父(源氏)はどうしてこんな辛い思いをさせるのだろう」と不満たらたらである。もう一人が、夕霧の祖母・大宮(葵上の母)である。大宮は、葵上が亡くなってからというもの、夕霧を我が子のようにして可愛がり育ててきた。その可愛い子が「六位とは・・」とこちらも憤懣やるかたない。

  にもかかわらず、このような措置を取った源氏の考えとは、一体どのようなものであったのだろうか。大宮を説得した時の源氏の見解を要約してみよう。
  「親の七光りでは将来が危ぶまれる。世間は親を見て子にもおべっかを使うものである。自分がいなくなれば、お終いといのではあまりに心もとない。だから地位に慢心してしまったり、驕ったり、恣意に走ったりしないようにしなければならない。それには、位を低く抑えて、人間としての資質を磨くことが大事である。
  さらに、漢学を学ぶことによって確たる実力を付け、将来政界の重鎮として夕霧に活躍してもらわなければならない」
  甘えを許さない、見上げた考えであり、現代にも生きそうな見事な論理である。さすがに大宮は、源氏の深い慮りに
  『げに、かくもおぼしよるべかりけるを』
と感心もし、納得もする。

  政界トップにいる者の息子なら、苦労しなくてもエスカレータ式に偉くなれるというのに、彼はあえて夕霧を大学に入学させることにした。いずれにしてもこれは極めて稀なことである。
  大学入学に際してはまず「字つくる」ことから始まる。「字(あざな)」とは、大学の文章道に入った者は、親が付けた実名以外に、中国風の字を付けることになっていた。例えば、菅原道真なら「菅三」とか、紀長谷雄なら「紀寛」などといった具合にである。夕霧がなんいう字を付けられたかは物語には出ていないが、さしずめ「源夕」とでもあっただろうか。
  この式が源氏の邸・二条院東院で行われた。顕官の息子が大学に入ることも珍しいことである上に、見たこともない「字つくる」式が行われるというので、上達部や殿上人たちが珍しがってぞろぞろ参集してきた。
  「字をつくる」大学の儒者(博士)たちは、こんなに多くの人が見物するのではかえって気が臆してしまう。そうならないようにと源氏は
  「俺の子と思わず、古例に従って遠慮なく厳しく行え」
と発破をかける。
  集まった連中は、まず儒者たちの姿をこう言ってこき下ろす。
  『うち合はずかたくなしき姿などをも恥なく、おももち・声づかひ、むべむべしくもてなしつゝ、(ずらりと儒者が)座につき並びたる作法よりはじめ』
  「体に合わない服を不恰好に着ているにもかかわらず、儒者どもはそれを恥じとも思わず、顔つきといい声の出し方といい、いかにもしかつめらしくして、ずらりと座についている」景色を述べたものである。
  これを見た若い公達が、我慢できずにまず笑い出してしまった。

  式と宴が始まった。源氏は、儒者たちの相伴役として失礼のないしっかりした者を選んだつもりであったが、経験のない席ということもあって、相伴役は、儒者に酒を振る舞うに当たっても、おどおどしてしまって上手にお相手できない。すると、儒者たちはその失態を咎めて、けなしまくる。
  「そもそも相伴役ともあろう者が、こんな失態を演じるとはけしからん。わしのような著名な学者をご存じないのか。そんなことで政治に携わっているとは、まことに笑止千万!」
  それを聞いた参会者がまた笑い転げる。すると、儒者たち
  『鳴り高し。鳴り止まむ。はなはだ非常なり。座を引きて、立ちとうびなん』
と脅し喚きたてる。それがまた面白いといって参会者は呆れて見ている。
  「非常(ひぞう)」とは、「とんでもない」ということである。「とんでもない常識はずれである、この席から出ていきなさい!」と叱りつけているのである。
  「非常」や「とうびなん」という言葉は、通常使われない言葉であるという。儒者の浮世離れした姿を象徴したのだろう。
  とにかく、少しでも声を出すと厳しく制する、ちょっとした間違いがあると無礼なりと言っては咎める。源氏の「厳しくやれ」という助言が、奇妙な形で働き出してしまったようである。

  夜になると、篝火の明かりで儒者たちの顔が一層はっきりと見えてくる。酒の回ったその姿・容貌は、参会者には
  『猿楽がましく、わびしげに、人わろげなるなど、さまざまに、げにいとなべてならず、さま異なるわざなりけり』
と映るのである。儒者たちは「猿楽がましく」とまで言われてしまったのである。彼らが、酒に酔って顔を赤くしている姿は、滑稽で、貧相で、不体裁で見ていられないのだ。
  なんと、儒者たちのあまりに桁外れた言行に、源氏は、自分も叱られるのではないかと御簾のうちの隠れてしまった。

  その後、夕顔は無事に学問を習得していくのだが、中心になって指導してくれた儒者を、源氏が呼んで、お礼の盃を取らせる。盃を取る儒者の顔は「痩せ痩せ」であったとある。
  当時は、藤原氏に政界は席巻されていて、漢学で身を立てることなどは不可能なことであった。そのため彼らは一様に貧しい暮らしをしていたようである。こういう式典の装束は人からの借りたものだし、顔は痩せ痩せ、そんな貧相な者どもが、豊かな貴族を前にして「非常である」とか「わしの名も知らないで」と威張り散らすのだから、嘲り笑われるのも無理はない。
  
  実は、儒者への蔑みは『花宴』の巻でも、次のように描かれていたのである。
  南殿で催された花の宴で、漢詩つくりが行われた。その講評をするのが漢学者(博士)たちである。
  『年老いたる博士ども、なりあやしくやつれて、例慣れたるもあはれに』
  身なりはひどく粗末であるにもかかわらず、こういう場になれ顔であるのもなんとも「あはれ」なことであるよ、という意味で、彼らの貧窮と図々しさに鋭い軽侮の念を感じているのである。そもそもこの「博士ども」の「ども」がすでに彼らを見下げた言い方なのである。
 
  このような嘲りは、もちろん紫式部の日ごろの思いが素直に出てしまった結果なのであるが、それでは、紫式部は漢学者に対して何故かくも辛辣なのであろうか。
  その一つは、彼らが、「女が漢詩を学ぶことなど憎きこと」と言ってみたり、物語を「女・子供のもてあそびもの」と侮ったりしていたようであることである。これは紫式部にすれば、我慢できないことである。そこで、思わず舌鋒鋭くなってしまったのではなかろうか。
  そもそも彼女の漢学の素養は甚だ高いのだ。それが源氏物語のそこここに顔を出している。平凡な漢学者よりも、彼女の漢学の素養の方がよほど優れていたかもしれない。ここには「女にだって漢学の才のある者はいるのだ」という自負があったのかもしれない。
  当時、男の世界はまだまだ漢学が主流で、道長の「御堂関白日記」にしても藤原行成の「権記」にしても、あるいは藤原実資の「小右記」にしてもみな漢文である。「紫式部日記」は仮名で書かれているが、彼女なら漢文でも優に書けたはずである。

  もう一つ言えることは、世は「国風」の文化が隆盛になりつつある時代であったということである。仮名の発達ということもあって、漢学は押され気味だったのではなかろうか。そこに和歌の重視という風潮も現れてきた。このような気運にあるというのに、漢学者は、あいかわらず漢学だけにこだわって、そこから一歩も出ることができないでいた。いわゆる「古体」の衣を着たシーラカンスである。紫式部にはそんな漢学者に我慢できなかったのだ。
  紫式部が源氏物語の中で、最も重視していたのは、「あはれ」である。漢学者はそれを知らぬ種族に属していたということである。僧侶も、紫式部によってしばしば侮られている。僧侶も、漢学者ともども「あはれ」の世界からほど遠い存在だからである。
  (この見解は、歴史的根拠があるわけではなく、私個人のものであるが、この箇所を読んでいるとそう思えてならない)


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