源氏物語

源氏物語たより536

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     さうどきつゝ食ふ   源氏物語たより536

  「玉鬘十帖」の五番目の巻「常夏」はこんな情景から始まる。
 
  『いと暑き日、ひむがしの釣殿に出で給ひて涼み給ふ。中将の君(夕霧)もさぶらひ給ふ。親しき殿上人、あまたさぶらひて、西河よりたてまつれる鮎、近き河のいしぶしやうのもの、御前にて調じまゐらす。例の大殿(内大臣)のきむだち、中将の御あたり訪ねて参り給へり。
  (光源氏)「さうざうしくねぶたかりつる(を)、折よくものし給へるかな」
とて、大御酒まゐり、氷水召して、水飯など、とりどりにさうどきつゝ食ふ。風はいとよく吹けども、日のどかに曇りなき空の、西日になるほど、蝉の声などもいと苦しげに聞こゆれば、
  (源氏)「水の上無徳なる今日の暑かわしさかな。無礼の罪は許されなむや」
とて、寄り臥し給へり』

  少し長い引用になってしまったが、当時の風物・風俗が極めて鮮やかに描かれており、しかも文章が比較的に易しいので、そのまま引いてみた。
  京都の夏の暑さについては、既に「たより127」や「たより209」でも述べたところであるが、この「常夏」の冒頭に、京の暑さが象徴的に描き出されている。
  今でも京の暑さは有名で、その対策として、鴨川にせり出すようにずらりと並ぶ納涼の桟敷があったり、また、貴船川の上に直接床を出して料理(川床料理)を出したりするところもある。
  平安の貴族たちもこの暑さには堪(こた)えたようで、さまざまな暑さ対策をしている。寝殿造りで、大きな池を配したり遣水を作ったりしたのも、単に雅や情緒を求めるだけではなく、暑さを防ぐためのやむを得ない知恵であったのかもしれない。先の文章からも、「釣殿」は、「釣りをするためのもの」だけではなかったことがよく分かる。いやむしろ涼みのために彼らは造ったのではなかろうか。
  源氏は、暑さに耐えきれなくなったのだろう、釣殿に出て涼を取っていた。息子の夕霧や源氏に親しい殿上人も大勢控えている。そこに、内大臣(元の頭中将)の息子たちも夕霧を訪ねてやって来た。これで役者が出そろった。
 
  この場面には、源氏物語には珍しく、食べ物が何品か出ている。「鮎」「いしぶし」「氷水」「水飯」である。
  「西河」とは今の桂川のこと、「近き河」とは鴨川のことである。また「いしぶし」とはカジカのことだそうで、桂川から獲れた鮎や鴨川から獲れたカジカを、源氏の御前で直接料理して饗するという、まさに「川床料理」である。
  「氷水」は、氷を溶かした水で、現代で言えばかき氷のようなものか。「水飯」は、飯を冷水に浸したものというが、現代の何に当たるのだろうか、該当するものが思い当たらない。
  いずれにしてもいかにも涼を呼ぶ食べ物であり食べ方という感じがする。

  源氏物語に食べ物が登場するのは、上記以外には次の二つぐらいしかないのではなかろうか。
  「松風」の巻では、源氏が大井に移って来た明石君を訪ねた時に、源氏の後を追ってきた殿上人たちと、桂の院で宴を張る場面に出て来る。「鵜飼どもを召し」とあるから当然鮎を食べたのだろう。また昨夜野原に泊まって猟をしていた連中が、荻の枝に小鳥を下げてやって来たとあるから、やはりこの小鳥も焼き鳥にでもしたのだろう。これらを肴にして大御酒が「ずむ流れる(盃が何度もまわってくる)」ほどに大騒ぎしている。
  「若菜上」の巻では、蹴鞠(唐猫が御簾を巻き上げたために、女三宮の立ち姿が柏木に見られてしまう場面)の後、やはり宴を催している。ここには何種かの食べ物が出ているので、列挙しておこう。
  椿もちひ(甘味料を掛け、椿の葉で包んだ餅 蹴鞠の時に食べるという)、梨、柑子(かうじ ミカンなどの柑橘類)、干物(からもの 肉や魚の干したもの)

  源氏物語には、酒はしばしば登場するが、その他の食べ物・飲み物が出て来ることは稀である。ましてその食べ物が美味しかったとか不味かったとか珍しかったとか、あるいはどのようにして食べたかなどは一切書かれない。あれほど長大な物語だというのにこれは誠に不思議なことで、それゆえ上記の三場面などは貴重な記述と言えるのである。 
  紫式部は、衣服に関してはあれほど詳細を極めて書いたというのに。よく「衣・食・住」とまとめて言われるが、それはこの三つが人間にとって必須のものであるからだ。ところが、そのうちの「食」ばかりが源氏物語には欠落している。
  これは一体どういうことなのだろうか。平安人は食べ物に対してはあまり関心がなかったということだろうか。でもそんなことはなかったはずである。食物は人の命を育むものであり、日に三度(平安時代は二度)はお世話になっているのだから、これを抜きにしたのでは、物語も停滞してしまう。現に当時の料理法は実に多岐にわたっていたと『源氏物語手帳 新潮選書』には
  「調理は膾、刺身や羹物、煮物、炒り物、焼き物、揚げ物、蒸し物、茹で物など種々あった。干物は鶏肉、獣肉、魚肉を干したもので、保存の関係で宮廷の食生活にも多く用いられた。寿司は・・」
とあり、現代と全く変わらない。

  ということは、源氏物語などの物語文学や詩歌の世界では、食べ物を詳述することは避けなければならないことになっていたということであろう。古今集などには食は一切詠まれていない。特に源氏物語が求めたものは、「あはれ」である。しみじみとした情趣を追求することにこの物語の大きな目的があったので、食はこの領域には入りにくいことは確かだ。食は人間の欲の根底にあるもので、単なる「食欲の追及や満足」は「あはれ」からはほど遠い。性もまた人間の根底にある欲である。したがって、源氏物語では恋愛は描くが、性欲そのものの営みを赤裸々に描くことはない。

 現代では食が溢れ反っている。テレビではチャンネルを回せば、必ず食の番組が出てくる。紀行ものだと言うので楽しみにしていると、肝心の紀行に関する追求はおざなりで、食の場面で終わってしまうものが多い。しかもラーメンだとか寿司だとかいって、どこに行ってもあるような変わり映えのしないものに、大口を開けて食らい付いている。そしていかにも感に堪えないというように目を細めて、「旨~い!」などと言う。
  紫式部がこれらの番組を見たら、どう反応するだろうか。恐らく例の辛辣な言葉が跳ねかえってくることだろう。どんな美女がどんな高級な食べ物を食べていても、美しいとは思わないし絵にもならない。もし藤壺宮や紫上が「旨~い!」などと言いながら物を食っていたら、ひどい胸焼けを起こすことだろう。

  さて冒頭の部分に戻ってみよう。
  ここに「さうどきつゝ食ふ」とある。「さうどく」とは「騒ぎ立てる、ざわざわする」という意味で、上達部たちが、ざわざわ大騒ぎしながら氷水や水飯を食べている様子である。しかし、私はこの場合の「さうどく」は「がつがつ」という意の方がより適しているように思う。京の暑さの中を、六条までやって来た若き公達たちは、水面を渡る風に吹かれて冷たいものにありついているのだ。彼らは、身分や場所も忘れて「がつがつ」と食らい付いているのではあるまいか。
  これは普通なら「無礼」な所作である。ところが、太政大臣の源氏自身も暑さにやりけれない。そこで「無礼(むらい)の罪は許されなむや」と言いながら、釣殿で何かに寄りかかって横になってしまった。恐らく直衣の紐を外していたことだろう。この場合はノーネクタイ、開襟姿でも許されるのだ。
  実は彼が「無礼」な行動に出るのには、下心があったのである。源氏は、内大臣が最近妙な娘(近江の君と言い、超あわつけき娘)を引き取った話を聞き知っていた。良い具合にそこに内大臣の子供が来ている。そんな軽薄な娘を不用意にも引き取ってしまった内大臣の軽薄さを、ここでこっぴどく侮ってやろうという算段なのである。その侮りの言葉は、息子を通して親の内大臣に届くであろうという計算である。
  そんなえげつない下賤な話を切り出すためには、水飯をがつがつ食ったり釣殿の床に横になったりという無礼な状況が必要だったのだ。なにしろこの頃は、源氏と内大臣の仲は最悪の状態にあって、彼は、内大臣を侮辱したくてうずうずしていたところなのである。食べ物がえげつないことを言い出す恰好なよりどころになったのである。
  「若菜上」の先の蹴鞠の場面も同じような状況にあるのだが、ここでは詳細は省くことにする。いずれにしてもここでも若い連中が「椿もちひや梨や柑子や干物」を
  『そぼれ取り食』
っているのである。「そぼる」とは「はしゃぐ」という意味であるが、これも「がつがつ」が適している気がする。食べ物を取ってはがつがつ食い、取っては食うという「みだりがわしき」様子を描いている。

 食は、所詮食に過ぎないから、「あはれ」を追求する源氏物語には無縁である。しかしそれなりの状況が設定されてさえいればまた別である。水の上にいても意味がない(無徳)ほどの暑かわしい夏の日、客人は鮎や水飯を「さうどきつゝ食」い、主は主で太政大臣ともあろうに襟の紐を解き釣殿に寝そべるという無礼の中で、食はそれなりの位置を占めるのであり、作者もまたそれを描くことを厭わないのである。


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