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源氏物語

源氏物語たより542

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     源氏物語の跡を偲ぶ  源氏物語たより542

  大学のクラス会が京都で行われるということで、一日前に出かけ、源氏物語ゆかりの史跡を巡った。最近京都の旅というと、源氏物語が頭から離れず、いつの間にかそれに関連した史跡を回っている。特に大覚寺や嵐山には、この数年のうちに三度も続けて足を運んだ。大覚寺は物語の直接の舞台になっているわけではないが、光源氏が、権中納言(元の頭中将)との絵合せに勝利した後、出家すべく
  『静かに山里ののどかなるを占めて、御堂造らせ給ひ』
と、寺を建てているのだが、これを受けて『松風』の巻に
  『造らせ給ふ御堂は、大覚寺の南に当たりて』
という形で登場する。この御堂のモデルと言われているのが、清凉寺である。確かに清凉寺は大覚寺の南に当たる。元は源融の別荘であったといい、境内には源融と彼の父・嵯峨天皇の墓(記念碑)がある。明石君が、明石から大井に移ってきて、源氏が逢いに行きたいのだが、紫上が怖い。そこで、口実にしたのがこの清凉寺なのである。
  私は、この寺に行く時は、いつも大覚寺にも寄る。大覚寺には見事な寝殿があるからである。後水尾天皇の紫宸殿を移築したもので、勾欄や階(きざはし)、簀子(すのこ)や廂、あるいは格子や妻戸などを、手に触れながら古代を実感することができる。
  また、境内には周囲800メートルという大沢池が広がっている。嵯峨天皇が舟遊びをしたところと言われ、今でも龍頭鷁首の舟を浮かべて月見をするという。日本屈指の古い苑池で、ほとんど原形のままで残っているそうだ。
  大覚寺全体から光源氏の時代を髣髴(ほうふつ)と偲ぶことができる。

  今回は、少し趣向を変えて今まで行っていない源氏ゆかりの史跡を回ってみた。

【六道珍皇寺】
  奇妙な名前の寺であるが、「六道」とは、天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六つの迷界のことである。我々はこの六つの世界を輪廻すると言う。
  六道珍皇寺は、鴨川を渡った五条と四条の間、六波羅密寺の近くにあり、まことに小さな寺で、観光客が寄るような所ではない。私が行った時にも境内には人影はまばらだった。申し訳ばかりのささやかな本堂の手前に、これも見過ごしてしまいそうなささやかなお堂がある。このお堂の中に、どうしたわけか小野篁と閻魔様の像が並んで鎮座している。小野篁は、嵯峨天皇の絶大な信任を受けて、一学者に過ぎなかったのだが、高官に就いた。ところが、遣唐使の事件でこの嵯峨上皇の怒りに触れ、隠岐に流されてもいる。その時の歌が百人一首の
  『わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海士の釣り舟』
である。二年後、許されて都に戻るや、さらに出世し、従三位にまで昇っている。
  そんな彼の像がなぜここにあるのか。またなぜ閻魔様と並んで鎮座しているのか。
  実は彼は、この世とあの世を繋ぐ使者であったと言われているのだ。昼は勤勉な役人として勤務し、夜になるとこの寺にやって来て、冥府に行って閻魔様に会うのだという。そして、死者の生前の功績・罪業などを閻魔様に報告・告発するのだそうだ。彼の像の隣には、鬼がものすごい形相で、右指をぐっと前に伸ばして怒鳴っている。
 このお堂の前に、顔の輪郭も定かでない石仏が、、ひな壇状に無数に並べられている。いつの時代のものであるのかは知らないが、おそらく篁の報告を受けて閻魔様に引導を渡された人たちのなれの姿なのであろう。 
篁が、夜な夜な冥府に通ったという井戸がこの寺の境内にあるから、この嘘のような話は、真実なのかもしれない。

  この寺から、五条坂を上って行くと清水寺である。今でこそ観光客で混雑しているが、平安の時代には、実に寂しく無気味な所であった。この一帯を「鳥辺野(清水寺から西大谷に通じる辺り)」と言い、死者を焼き、葬る場所であった。『徒然草』に有名な一段がある。
  『あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住みはつるならひならば、いかにもののあはれもなからん』
  吉田兼好は「無常」にこそもののあはれがあると見たのであるが、鳥辺野は無常を象徴する場所であった。ここには四万へーホーメートルの敷地に、数えきれないほどの墓石が並んでいるそうだ。まだ見たことはないが、おそらく化野の念仏寺と同じようなのであろう。ところが、今は多くの観光客でごった返していて、その誰もが無常とは全く関係のない顔をしている。彼らは、このあたりが火葬場であり、死者を葬る場所とは思いもしないのであろう。
 
 六道珍皇寺は、この鳥辺山の麓にあり、この世と冥界の境に位置していたのである。

  源氏物語には、この鳥辺野がしばしば登場する。
  まず『夕顔』の巻を見てみよう。源氏と夕顔は、わずか一か月の交際で突然幕を閉じてしまう。源氏が無理やり夕顔を六条の廃院に連れだし、その翌日の夜、彼女は突然胸を咳き上げて亡くなってしまう。慌てた源氏は、忠臣・惟光の知人が東山で尼をしているという言葉にすがるように、夕顔の死骸をここに急きょ運び安置する。
  源氏は憔悴して二条院に戻るのだが、どうしてもいまひとたび夕顔に会いたいと、東山に赴く。
  『十七日の月さし出でて、河原のほど、御先の火もほのかなるに、鳥部野の方見やりたるほど、ものむつかしきも、何とも覚え給はず』
  そして、夕顔の死骸の納められたところで、周囲の様子を聞き、見るのである。
  『寺々の初夜もみな行ひ果てゝ、いとしめやかなり。清水の方ぞ光多く見え、人の気配もしげかりける』
  「清水の方」とは、清水寺、長楽寺、六道珍皇寺その他であろう(岩波 日本古典文学大系より)。「ものむつかし」とは、「気味悪い」ということであるが、源氏はあまりの驚きと悲しみで、鳥辺野の方を見やっても気味悪いどころではなかったのである。
  しかし、今、東山を含めた鳥辺野(山)一帯にこの雰囲気は微塵もない。

  『葵』の巻の、葵の死に際してもここが出て来る。彼女の死骸を東山に葬る葬儀の様がこう描写されている。
  『鳥辺野にゐてたてまつるほど、(悲しみの)いみじげなること多かり。こなた・かなたの御送りの人ども、寺々の念仏の僧など、そこら広き野に所もなし』
  葵は、光源氏の妻であり、左大臣の娘である。したがって、その葬送には多くの人が参列し、さしも広き鳥辺野が埋まってしまうほどの盛儀となったというのだ。鴨川の東側、六波羅蜜寺、六道珍皇寺、建仁寺辺りは、人、人で埋まったということである。
  今は、清水寺は修学旅行生と外国人で溢れかえっている。私は、いつかその雑踏に紛れてしまい、帰りは清水坂をアイスクリームを食べながら下りていた。

【雲林院】
  光源氏は、藤壺宮と三度の逢瀬を持っている。しかし、三度目は逢瀬とは言えない。なぜなら藤壺宮が徹底して源氏を拒否したからである。さすがに消沈してしまった源氏は、意地も交えて、雲林院に籠ってしまう。藤壺宮にしばらく逢わずにいて、反って彼女を心配させてやろうという魂胆である。
  雲林院は、大徳寺の前にある。しかしあるとも言えないほどに小さな寺である。ここが源氏が仏道のために勤行・精進をしようとした寺であろうか、想像もできない。ましてその前には、広大な土地を占めて厳然と大徳寺が佇んでいるのだ。哀れですらある。 
  ところが、かつては大きな木々や草花で覆われた広大な寺院であった。
  『紅葉やうやう色づきわたりて、秋の野のいとなまめきたるなど見給ひて、故郷(自分の住処)も忘れぬべく思さる』
とある。しかしここには紅葉の木など目につかない。境内は私の家とさして変わらず、猫の額ほどの庭には、大木などは稀である。ただ下草はよく手入れされていて、瀟洒な雰囲気を醸し出していた。
  大徳寺のあるこのあたり一帯を「紫野」と言う。平安京の北辺にある船岡山のさらに北にあたり、当時は狩猟地であったと言う。それほどの茫々たる山野であったとは、今では想像もつかない。この紫野に斎院があった。賀茂神社に奉仕する斎王の居所で、源氏の恋人・朝顔もここに斎王として仕えていた。源氏は結局、仏道だけに専念することができずに、この朝顔に手紙を贈ったり、恋しい紫上に手紙を出したりして気を紛らわせるのである。紫上の手紙に添えた歌は
  「あなた(紫上)のことを考えると心も休まらない」
というような主旨であったが、これに対して紫上は、
  『風吹けばまづぞ乱るる色変はる 浅茅が露にかゝるさゝがに』
という皮肉な返事を返す。「風が吹くと、とにかくまず心が乱れてなりません。なぜなら、心変わりの激しいあなたの浮気心に身を託さざるを得ない私なのでるから」というような意味になろうが、彼女は、源氏が雲林院に籠ったとは信じていないようである。

【紫式部の墓】
  それは全く気が付かないところにあった。堀川通りと北大路通りの交差点のやや南、工場の一角に、隠れるように紫式部の墓はあった。堀川通りは、大変な大通りで、車の行き来も激しい。そんな通りに、すっかり忘れられたようにひっそりとしている。源氏物語に親しんだ者でなければまず訪れることはないであろう。墓の入口に掘っ建て小屋があり、その中に管理人がいて、胡散臭そうに私を見ていた。
  それでも墓は予想外に大きく、小さな古墳のように盛り上がっている。墳墓の後方には小さな五輪の石塔が置かれていて、手前に「紫式部の墓」と案内の石柱がある。そこにどういうわけか夏みかんが供えてあった。
  それにしても、当時は女の名前さえ残っていないのだから、紫式部の墓があろうはずはない。それに、埋葬には守らなければならない規定があったという。「平安京近辺の道路のそばには墓は造ってはならない。また墓は三位以上の人しか原則的に造営が認められなかった 『平安京の風景 (文英堂)』より」のだ。源氏物語が有名になって、慌てて造ったものであろう。何しろ京のどこかには「夕顔」の住んだ町があるとか、明石には、源氏が明石君の所に通った道があるとか、と言うのだから、紫式部の墓があってもおかしくはない。彼女の邸は、御所の東側の廬山寺にあったという。これは本当らしい。
  でも、源氏物語に心酔している者にとっては、彼女の墓があることは嬉しいことである。ここを拝むことによって、箔がついたような気がするのだから。
 
  不思議なことに、紫式部の墓の隣に、小野篁の墓が並んでいた。梅原猛の『京都発見』(新潮社)によれば、篁は、冥府に行く時は、先の六道珍皇寺の井戸から行ったのだが、帰りは別の所から出てきたという。その場所は、嵯峨野の大覚寺門前にある六道町の福生寺(今はない)の墓だったという。
  どうせこれも嘘に決まっているから、あるいは、堀川通りのこの式部の墓のあたりからも出てきたのかもしれない。とすれば、紫式部も冥府の使者だった可能性がある。篁とは時代が違うが、彼の跡継ぎだったと考えられる。なぜなら、冥府の使者になるには、小野篁のように超優秀な能力の持ち主でなければならないからである。紫式部は篁を超える。今ごろ二人は冥府で、仲よく夏みかんでも食べているのだろう。

【京都風俗博物館】
  西本願寺に近いところにある。源氏物語の様々な場面を、実物四分の一の人形で再現している。今回は、紫上が、自分の命の間際なのを悟って、法華八講を催す様が、たくさんの人形によって再現されていた。人形の一つ一つが実に精巧で、生きているかのごとくである。
  館内には私以外には二、三組の人しかいない。係りの人が暇を持て余して人形を補修している、と思ったら、展示用の人形を彼女が作っているのだった。つまり彼女は人形作者だったのである。私は、平安時代の衣装のことが苦手なので、襲(かさね)のことや袍の着方などいろいろ彼女に教えてもらった。
  それにしても見学者が少ない。これでは宝の持ち腐れで、もっと宣伝すればいいのにと思った。すると先の係りの人、いや人形作者が言った。
  「社長の方針なのです。分かる人や興味のある人にじっくり見てもらえばそれでいいといつも言っています」
  源氏物語というものはそれでいいのかもしれない。


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