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源氏物語

源氏物語たより544

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     不可解な空間 野宮   源氏物語たより544

  『賢木』の巻は、源氏物語54帖の中でも、緊迫感に溢れた優れた巻と言っていいだろう。さまざま興味深い事件・事柄が次々繰り広げられるが、それぞれの話に緩みがなく、ぴんと張った糸のように綴られていて一瞬の気も許せない。
  この巻は、六条御息所の伊勢下向の話から始まる。

  つれない光源氏との関係を完全に解消して伊勢に下るべく、斎宮となった娘と共に野宮に籠った六条御息所ではあるが、いざ京を離れるとなると、気持ちの揺れを収めるのはなかなか容易なことではない。
  一方、御息所の物怪が、妻・葵上に取り付くという騒ぎまであって、嫌気がさした源氏は、御息所を見限ったはずなのだが、彼女がいざ京を離れると聞くと、心の騒ぎをいかんともしがたく思うのである。
  「このまま別れてしまったのでは、彼女は私のことを冷淡な男と怨み続けたままになってしまう、それではあまりにみじめだ。また愛人を捨てたという世間の評判も気になるところだ」
と、彼女が伊勢に下向する直前になって、「なんとかもう一度の逢瀬を」と焦るのである。
  御息所は「今更逢っても・・」とは思うものの、再々度源氏から
  「立ったままでもいいから」
との申し出があるもので断わりきれずに、それでは
  「物越しでだったら・・」
という条件で逢うことを了承する。ところが女心とは不思議なもので、いざ了承の返事をすると、逢いたい気持ちが鬱勃と湧いてきて、源氏のお出でをひたすら待つ気分になるのである。
  そして九月七日のこと、源氏は随人十人余りを連れて野宮に向かう。
  『はるけき野辺を分け入り給ふより、いとものあはれなり。秋の花みな衰へつゝ、浅茅が原も、枯れ枯れなる虫の音に、松風すごく吹きあはせて、そのこと(琴)とも聞きわかれぬ程に、ものの音どもたえだえ聞こえたる、いと艶なり』
という秋の野の情趣豊かな景色の中を野宮に向けて走る。野宮に近づくと楽器(琴)の音が、松風に合わせて絶え絶えに聞こえてきて、まことに艶なる雰囲気を醸している。源氏はどうしてこんな素晴らしいところに今まで来なかったのだろうかと口惜しく思う。
  源氏が到着して、おとないを入れると、今まで鳴っていた楽の音がぴたりと止む。

  ところで、斎宮とは、天皇の代わりに伊勢神宮に仕える女性のことで、内親王または王族の娘から選ばれる。野宮は、その斎宮が、最後の一年間、精進・潔斎をするための場所である。御息所はもちろん斎宮ではないが、娘と行動を共にするわけであるから、娘共々ここで精進・潔斎しなければならないことに変わりはない。とにかく、野宮というところはまことに神聖にして犯すべからざる神域なのである。
 
  ただ、不思議に思うことは、そんな神域であるにもかかわらず、愛しあう(あるいはかつて愛し合っていた)男女が、ここで堂々と逢瀬を持とうということである。そしてこれから華やかな恋が展開されようとするのだが、そんなことが許されるのであろうか。
  寺などに行くとよく
  「葷酒不許入山門」
という文句が石柱に刻まれているのを目にする。「葷(くん)」とは、ネギ、ニラなど臭気の強い野菜のことを言い、このような野菜を食べた者、あるいは酒を飲んだ者は、この寺に入ることを許しません、という意味で、私のように気の弱い者は、酒など飲んでもいないのに一瞬腰が引けてしまう。まして神域で女に会うことなど考えもしない。

  しかし、こうして源氏は御息所に逢うことになった。当初は「立ったままで」とか「物越しで・・」などと言っていたのだが、最後には「簀子に上がるだけでも許してもらえまいか」というところにまで行ってしまった。さらに
  『御簾ばかりはひき着て、長押に押しかかりてゐ給へり』
というのだから呆れたことである。長押は、簀子と廂の間の境にある一段高い下長押のことで、ここに身を寄せかけて、御簾を引き被ったというのだ。彼は、簀子に体を横たえ廂の間に半身を乗り出しているというわけである。なんと図々しくもあさましいことではないか。、神を冒涜する行為と言わざるを得ず、「葷酒」どころではない。
  そればかりか、ついには
  『(御息所の)御手をとらへてやすらひ給へる、いみじうなつかし』
というのだから、神の前での破廉恥、ここに尽きたりという所業である。「やすらふ」とはためらうということ、「なつかし」とは、人の心をとらえるということ、あるいは魅力あふれるという意味である。御息所の手を握ったままなかなか離そうとせず、口説きが始まってしまったのだ。結局、二人は、元の木阿弥に戻ってしまったということである。
  しかし、御息所としては今更伊勢下向を翻意するわけにもいかない。源氏は未練たらたら、あか月の中を虫の音に送られて、野宮を去って行く。

  源氏の行為は、誠に罰当たりで不埒な行為に間違いないのだが、ただこのような行為が、野宮というところでは、ごく普通に行われていたようなのである。というのは、次のような表現でもそのことが予想できるからである。源氏は、御息所と愛の交歓の最中に、趣豊かな庭に目をやりながら、こんなことを思っている。
  『殿上の若君達など、うち連れて(野宮を訪問し)とかく立ちわづらふなる庭のたゝずまひも、げに艶なる方にうけばりたる有様なり』
  年若い殿上人の君達が、連れ添ってこの野宮を訪れ、彼らは立ち去りかねて、庭の優雅な雰囲気に酔うという。これは一体どういうことであろうか。彼らは、この庭の情趣に酔うとともに、源氏と同じように、女の手を握ったまま女にも酔ってしまって帰る気がしないということであろう。
  京の中心部から五、六キロも離れたこんな淋しいところにまで彼らがやって来るのは、艶なる庭の佇まいを鑑賞するためではない。そこに魅力的な女がいるからである。その女とは、主に斎宮お付きの女房たちであろうが、あるいは時には巫女や斎宮も交じっているかもしれないのだ。いわば教養ある女房や魅力的な巫女、あるいは斎宮などを中心にしたサロンを形成していたのだと思われる。そういえば、賀茂神社に仕える斎院が籠っている場所(同じく斎院と言う)も、一大サロンになっていたそうだ。そのことは紫式部日記で知ることができる。
  先の引用の中にも「ものの音どもたえだえ聞こえたる、いと艶なり」とあった。そして源氏一行が到着すると、楽の音は「ぴたりと止んだ」ともあったが、彼女たちは、精進・潔斎しながらも、一方で、盛んに歌作りをしたり琴などの演奏をしたりして楽しんでいたということだ。その中に殿上の若い公達も交じっていた。

  当然そこでは男女の愛も語られるようになる。『伊勢物語』の「六十九段」は、まさにそのことを描いた物語である。在原業平と斎宮とは、濃蜜な恋の一夜を過ごしたのだが、その翌朝
  『君や来し 我や行きけむ 思ほえず 夢か現か 寝てか醒めてか』
と歌った女の歌は強烈である。伊勢神宮に斎宮として入った女でさえ男と契るのである。
  まして野宮においておや、である。
  あか月の下、帰って行く源氏の姿をほのかに見た若い女房たちは
  『月かげの御かたち、なほとまれる匂ひなど、若き人々は、身にしめて、過ちもしつべく愛で聞ゆ』
  (夜明けの月光のなかにほんのり見えた源氏の姿形、まだ辺りに消え残っているその匂いなど、若い女房たちは、身にしみて恋しく、いっそもうどうなってもいいようなことまで、口々に語り合うのであった。 祥伝社 『謹訳源氏物語』林望訳より)
と言うのだから、神も何もない。禁忌の場にいる彼女たちにとっては、愛の交歓こそもっとも相応しかったのかもしれない。
  神社の縁結びの御利益などは、これに由来しているのだろう。


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