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源氏物語

源氏物語たより548

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     藤壺宮の死  源氏物語たより548

  『ともし火などの消え入るやうにて、はて給ひぬ』

  これが藤壺宮の最期の様子である。諸注によれば、この死の様は、釈迦入滅の姿を描いた法華経の言葉に依ったものであるという。法華経の『安楽行品』に次のような言葉があるそうだ。
  「(お釈迦様が)無漏の妙法を説き、無量の衆生を救い、後、まさに涅槃に入ること、煙尽きて、灯の消ゆるが如し」
  「涅槃」とは、仏陀または聖者の死を言う。「入滅」と同じである。
ということは、藤壺宮の死は、まさに釈迦の死と同じで、寂静そのものであったということであろう。

  この箇所は、疑問の多いところで、私たちの「源氏物語を読む会」でもいろいろの意見が出された。
  藤壺宮の生涯は、実に波乱に満ちたものであった。帝の子として生まれたが、父帝亡き後は、母と自邸に逼塞(ひっそく)していた。桐壷帝からのたっての望みによって入内し、帝から寵愛されたものの、敵方の弘徽殿女御には常に白眼視されていた。その間、光源氏との道ならぬ恋に陥り、子供までなしてしまった。その子は、桐壷帝のごり押しによって春宮の位に就いたものの、敵方の嫉視と秘事に慄(おのの)く毎日であった。
  桐壷院崩御の後は、源氏の執拗な求愛に困惑して、ついに尼に身を代えてしまった。さらに唯一の味方であり、春宮の後見でもあるその源氏が須磨に退去するという事件まで起きてしまい、春宮の地位を守るために、ひたすら隠忍、自重の日々を送るしかなかった。源氏帰京後は、ようやく安穏の日を迎えることができるようになったが、それでも、例の秘事への恐れは消えることはなかった。

  そんな藤壺宮がどうして釈迦のような寂静の死を迎えることができたのだろうか・・と言うのが、「読む会」の人たちの疑問となった。それらの疑問や意見、あるいは私自身の見解などを集約すれば概ね次のようになろうか。
 ○ 源氏との秘事が、死に当たって心の乱れとならなかったのだろうか。
 ○ 出家の身なので、悟りの境地にあったのだろうか。
 ○ 若い帝(冷泉帝)を残して、いわゆる心の闇はなかったのだろうか。
 ○ 帝は既に十四歳、それに源氏もしっかり後見しているので、帝の将来に対する心配はなかったかもしれない。
 ○ 三十七歳(三十九歳)というのは、当時としては平均的な寿命であろう。だとすれば、ほとんどの人が静かに死んでいけたの   ではないか。つまり宮の死は単なる死であって、あえて釈迦の死になぞらえて読まなくてもいいのではなかろうか。
などなどである。いずれも簡単に答えを出すことなどできない疑問や意見である。

  私は、彼女の死は幸せであったのではないかと思っている。その理由の一つは、源氏に看取られて死ぬことができたということである。源氏が見舞いに来た時には、もうすっかり衰弱していて、この何日間は
  『柑子(こうじ 蜜柑)などをだに、(手に)触れさせ給はずなりにたれば』
と言う危篤の状態になっていた。そんな状態でも、源氏に対する感謝の気持ちを必死に訴えようとするのである。特に、源氏が、冷泉帝の後見をしっかりやって来てくれたことに対しては、「今までも何度も言葉で伝えようとしていたのだけれども、ただその機会がなかったので・・」と嘆いている。死を迎えた今になってそのことが
  『あはれに、口惜しく』
てならない、と言っていられる。そう言う宮の声が、源氏のいるところまで、ほのかに聞こえてくる。
  それに対して、源氏が言葉をかけている最中に
  『ともし火などの消え入るやうにて、はて給ひぬ』
のである

  さて、この「あはれ」は、単に「しみじみと」と言う意味だけで理解してしまっていいのだろうか。私には、多分に「愛しい」という感情が含まれているのではなか、と思えて仕方がない。ただ、大勢の女房に囲まれている中であるから、あからさまに「愛しい、恋しい」とは言えない。そこで「冷泉帝の後見を」というような支障のないことに紛らわしているのだが、実際には彼女の脳裏を駆け巡っているは、源氏に対する恋慕そのものであったはずである。つまり「私もあなたを愛していた・・」と言いたくて仕方がなかったということである。そのことが言えなかったことが誠に「残念でならない」というのが彼女の本音であったに違いない。しかし、そんな機会が今まであろうはずはないし、また言うべきことでもない。
  彼女が、静寂のうちに死を迎えることができたのは、本心をそれとなくほのかにでも伝えることができた安堵感、そして、そんな愛する人に看取られながら死を迎えることができた満足感からであった、と私は思っている。
  二人の関係は、とかく源氏の一方的な思慕と見られがちであるが、そうではない。二度目の例の官能の逢瀬の場面を見ただけでも、そのことは知ることができるし、その他にも、源氏に対する恋愛感情を抑えに抑えてきている様がほの見える。『紅葉賀』の巻で、源氏が青海波を舞った時の、その卓越した舞姿にひどく動揺したのも、その表われの一つだ。桐壷帝から、源氏の舞について感想を求められた時に、
  『あいなう、御いらへ聞こえにくくて「殊に侍りつ」とばかり聞こえ給ふ』
たのは、本心は「まことに見事な舞でございました」と答えたかったのだが、どうも答えにくくて、「格別でございました」とだけ、ごくありふれた感想を言って、濁してしまった。彼女の源氏に対する恋心は、もとより公にできるものではない。それでも、このように、ちらりと漏れ出るのを、我々は垣間見てきた。

  自分の恋心を伝えることができずじまいで、死を迎えてしまうと思われたまさにその一番肝心な時に、源氏がそばにいてくれた。そして「あはれ」と吐露することもできた。愛する人にその気持ちを伝えることができることほど幸せなことはない。しかもその「あはれ」は、源氏だけにはひしひしと伝わる言葉なのである。

  紫上の死も、また静かなものであった。彼女も、藤壺宮以上に波乱に満ちた一生であった。それもみな源氏の好き心に起因する波乱であった。ところが、最後の最期には、それらの波乱を超越することができたようである。明石中宮には紫上の様子が
  『消えゆく露の心地』
がするのであるが、やがて
  『明け果てるほどに、消えはて給ひぬ』
のであった。露が消えていくのは実に静かなもので、いつ消えたのかもわからない。紫上が露が消えるように静かに死んで行けたのも、明石中宮が
  『御手をとらへたてまつりて』
であったからである。明石中宮(姫)が三歳の時から、紫上は心を込めて姫君を育ててきた。源氏の移り気に呆れはてて、どちらかと言えば彼を見限っていた情況にあって、自分の愛情の総べてを注いで育ててきた明石中宮(姫)は、限りない救いであった。その明石中宮が、死の間際に手を取って看取ってくれたのだ。それこそ彼女が静かに死んで行けた由縁である。
  人は死に当たってさまざまな姿を示す。もちろん誰もが願うことは、静かな心境で死んで行けることであろう。そのための最大の条件は、やはり愛する人が看取ってくれるということではなかろうか。

  一方、最愛の人・藤壺宮を亡くした源氏は、筆舌に尽くしがたい悲しみに打ちひしがれる。彼は、哀しみの涙を人に見とがめられまいと、念誦堂に籠ってしまう。そして
  『日一日泣き暮らし給ふ』
のである。念誦堂から外を見ると、夕日がはなやかにさしていて、そこに棚引いている薄雲が鈍色に染まっているではないか。それを見て彼は哀しみの歌を詠う。
  『入日さす峯にたなびく薄雲は もの思ふ袖に色やまがへる』
  峰に棚引く薄雲さえ、私の哀しみに感応したのであろう、この袖の色(喪服の鈍色)と同じ色をしているではないか、と嘆いているのである。淡々として心境を詠っているが、抑えきれない哀しみが滲んだ優れた挽歌になった。
  誰の死でも、悲しくないものはないが、特に最愛の人の死はつらい。しかも、その人が今生で初めて「愛しい」と言ってくれながら死んでいったのだ。それが仏のような寂静の死の間際の一言であったというのだから、源氏にとってはたまらない。彼が念誦堂に籠ってしまった気持ちがひしひしと伝わってくる


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