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源氏物語

源氏物語たより554

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     美しき野分   源氏物語たより554

  「野分」とは、(野の草を分けて吹く意)で、二百十日、二百二十日前後に吹く暴風、台風のことである(広辞苑)。
  この年の野分は特別凄まじいものであった。大木の枝は折れるし、六条院の御殿の瓦まで吹き飛ばすほどの激しさであった。そんな中を、まめな夕霧は、祖母・大宮の邸と六条院を行ったり来たり、立って歩くのもやっとという強風を突いて女性方の慰問をするのである。
  しかし、そんな嵐の中だというのに、もの恐ろしさや危険や困難、あるいはみじめさなどは微塵も感じさせない巻である。それよりも全編に情緒纏綿たる雰囲気が漂っているのだ。
  そう感じさせるのは、この巻の冒頭に引かれた二つの引き歌などに原因がありそうである。

  六条院の秋の館は、秋好中宮が、内裏から里下がりする時の邸である。秋が好きな中宮のこと、この邸には秋の花がいっぱい植えられている。特に今年の秋の花は見事に咲き誇っていて、黒木と赤木で結った垣の花々や草むらには露が、あたかも玉かと思うほどに輝きわたっている。
  ところが
  『野分、例の年よりもおどろおどろしく、空の色変はりて、吹き出づ』
という状況になってしまったから、大変。草・花や草むらに置いた露は、みな先を争うようにして乱れ落ちてしまった。慌てて格子を下すが、中宮は前栽の草・花が心配でたまらない。
  『おほふばかりの袖は、秋の空にしもこそ、ほしげなりけれ』
と、中宮が恐らく思われたであろうほどの心づくしの野分になってしまった。
 
  これが最初の引き歌で、後撰集の次の歌を引いている。
  『大空をおおふばかりの袖もがな 春咲く花を風に任せじ』
  比較的に易しい歌である。花は風にすぐ散ってしまう。だったら、
  「大空を覆うほどの袖があったらいいのに。そうすれば、花を風の勝手に任せることなく、ゆっくり味わうことができるのに」
という意味である。「春咲く花」とは、もちろん桜の花のことで、先を争って散ってしまうのが桜の花の宿命である。それに対して一瞬でも長く鑑賞したいと思うのが人情である。いっそのこと大空を覆うような袖でもないかしら、そうすれば桜の花も散らずに済むのに、と無理なことを願うのも、また人情というものである。
  引き歌は春の桜が早々に散ってしまうのを惜しんだ歌であるが、今は秋ではある。でも、中宮の思いは、この秋にこそ大空を覆うほどの大きさの袖があれば、前栽の草・花は安心なのに、というせんない心情を言ったものである。

  実はこの歌、ずっと後に、明石姫君の子・匂宮(光源氏の孫)が引いているのだ。匂宮は、紫上にこよなく愛された子であるが、誠にこましゃくれた子でもあった。紫上は、生前、二条院の自分の部屋の前の桜を匂宮に譲ることにした。彼女の死後、その桜の花が咲いたのを見た匂宮は、こう言って母(匂宮が紫上のことをこう呼んでいる)を偲ぶとともに、みなに得意になって吹聴するのである。
  『まろが桜は咲きにけり。いかで久しく散らさじ。木のめぐりに帳(とばり)を立てて、帷子(かたびら)を上げずば、風も、え吹きよらじ』
  (僕の桜が咲き誇っているよ。何とかこれを長い間散らさないでおきたいなあ。そうだ、木の周りに几帳を立てて、帷子を上げなければいいんだ。そうすれば風だって吹き寄ることなどできはしないぞ)
  まさか七歳の子が、後撰集の歌を知っているはずはないのだが、幼いながら、自ずから後撰集のこの歌の主旨にかなったことを言っていて、「こましゃくれ」を見事に演じている。

  さて、本題に戻ろう。もう一つの引き歌はこんなふうに使われている。
  今度は、紫上の部屋の前である。せっかく紫上が丹精込めてつくろわせた前栽だというのに、折しもすごい風が吹いてきて、花々も散々。特に
  『もとあらの小萩、はしたなく待ちえたる風のけしきなり。折れかへり、露もとまるまじく、吹き散らす』
という惨状である。「もとあらの小萩」とは、枝の先には葉がいっぱいついているが、その枝の本の方の葉は透いた状態であることを言う。
  ここには、古今集の次の歌が引かれている。
  『宮城野のもとあらの小萩 露を重み、風を待つごと 君をこそ待て』
   「宮城野」は、仙台の東方の地名だという。仙台といえば、萩で有名で、歌舞伎の名作に「伽羅(めいぼく)先代萩」という作品がある。仙台藩伊達家のお家騒動を扱ったものである。とにかく萩と言えば、露であり、宮城野なのである。
  「重み」の「み」は、原因・理由を表す接尾語である。したがって、この場合は「露が重いので」という意味になる。
  この歌の主旨は、早い話「あなたを待ちかねている」あるいは「早く逢いたい」ということを言いたいだけで、初句から四句までは「待つ」の序に過ぎない。ただそう言ってしまうと、味も素っ気もない歌になってしまって、「だから古今集はつまらない」という結果になってしまうのだが、恋しい人を待つ身を想像していただければ、この歌の味がぐっと深くなるはずである。「逢いたくて、逢いたくてたまらない」時の心の重苦しいこと。早くこの重苦しさを吹き払ってくれる風でも吹いてくれないものか、と思うのが、恋する者の本然の姿なのではないだろうか。
  万葉集にこんな歌がある。
  『山ぢさの白露しげ(重)み うらぶるる 心も深くわが恋やまず』
  「山ぢさが白露の重さにうなだれるように、うちしおれる心も深く、私の恋は止まないことだ。(旺文社 桜井満訳「万葉集」)」という意味である。「山ぢさ」とは、エゴノキのことで、白い花を下向きにして咲く。その花に露が置いたのでは重くてかなわない。早く風でも吹いてきて、この重い露を少しでもいいから取り除いてほしいという心境である。恋する者の心は、時代に関係なくいつも重く辛いものなのである。
  源氏物語の先の場面では、これが逆の意味で使われている。萩に露はつきもの。しかしあのしなやかな萩の枝には露は重すぎる。だから、風が吹いてきて、この露を少しでも落としてくれないか、というのが本の歌の主旨なのだが、この度の野分はまあ望んでもいないほどの凄まじさで、これでは情緒も何もあったものではない、「もう風は結構!」と、物語では嘆いているのである。

  とにかくこの野分の威力はすごいもので、長年人生を送ってきた夕霧の祖母・大宮も初めての経験だと言っている。
  しかし物語からはそんなおどろおどろしさは全く感じとれない。むしろ、にこにこしながら、爽やか気分で読むことができる。それは先のように引き歌が効果的に使われていることなどに起因しているのだろう。

  それと、もう一つの理由としては、若き夕霧の素直で優しい心が全編に流れていることもある。このことについては既に文章化している(「源氏物語たより270、271」)ので、詳細は省くことにする。彼が慰問して、垣間見たりほの見たりした女性方を、彼は実に情緒たっぷりに、適切に表現している。
  たとえば紫上の姿は
  『春のあけぼのの霞の間より、おもしろきかば桜の咲き乱れたる』
であり、玉鬘は
  『八重山吹の咲き乱れたるさかりに、露のかかれる夕映え』
のように彼の目には映ったというのである。
  台風の困難も辛苦も恐怖も何もない。紫式部の温かい目が夕霧に注がれているから、全編に美しい詩情が流れることになったのだ。
  玉鬘を中心とする巻々を「玉鬘十帖(玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸、藤袴、真木柱)」と呼んで、どちらかと言えば「退屈で、面白くない」という評価を受けがちであるが、私は、この「野分」の巻は別格だと思っている。いつもベートーベンの「田園」を思い浮かべながら読んでいる。


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