スポンサー広告

スポンサーサイト

 ←源氏物語たより555 →源氏物語たより557
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 郷愁
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏物語
  • 【源氏物語たより555】へ
  • 【源氏物語たより557】へ
  • TB(-)|
  • CO(-) 
  • Edit
 

源氏物語

源氏物語たより556

 ←源氏物語たより555 →源氏物語たより557
     我褒め 「氷とぢ」の解釈を巡って  源氏物語たより556

  今井源衛の著書・「紫林照径」(角川書店)を読んでいた時に、今まで私が疑問に思い、私なりの解釈をしていた箇所を、この著書が私と全く同じように解釈しているのを見つけ、自分自身の理解の深さ・鋭さに驚かされた。私の古文に関する能力も捨てたものではない、と誇らしくも感じた。これを「我褒め」というのだろう。
  光源氏と言う男もよく我褒めをする。彼はすべての分野に関して万能なのだから、少しぐらい我褒めしたとしても仕方ないのだが、自分の容姿まで我褒めするのには呆れてしまう。二つほど例を挙げてみよう。
  紫上、明石君、明石女御、女三宮の四人による女楽が成功裏に終わった後、源氏は自分の指導で、夕霧や四人の女性の楽の能力がここまで優れて成長したことを、こう言って我褒めするのである。
  『(みんなの能力が)いと二なくのみあるにてぞ、わが御才のほど、ありがたく思し知られける』
  「ありがたし」とは、無類ということで、自分の才芸が世になく優れていることを自認せずにはいられない、というのである。これなどは音楽に対する彼の能力を自認したのだから、嫌味はないし事実おっしゃる通りなのであろう。
  もう一つは、須磨に流れて行く時のことだ。鬢を掻くと言って、鏡に向かうと、このところの苦労のためだろう、顔が痩せている。その顔が
  『我ながら、いとあてに清らなれば』
と見るのである。これもまあ、我々凡人にはとかく言えることではなく、やはりおっしゃる通りなのであろうが、彼は、『野分』の巻でも同じことを言って(思って)いるのだ。野分(台風)の見舞いに源氏の所にやって来た夕霧の容姿が、大層清げであることを紫上に話しながら、自分も鏡を見て、内心こう思うのである。
  『わが御顔は、古りがたくよし』
  「いつまでも若々しく美しい」というのである。ここまで来ると少々嫌味が出て来てしまう。但し、この文の末尾には『・・と、見給ふべかめり』とついている。語り手が「自分の顔が美しいと思っていらっしゃるようである」というのだから、我褒めに該当するか否かは微妙である。

  私は、源氏と比べようなどというおこがましいことは一切思っていないが、ただ、国文学の専攻でもないし、源氏物語に触れて日も浅い私が、源氏物語の大家・今井源衛と同じ解釈をしたのだから、我褒めしたくなるのも許されていいだろう。

  問題の場面は『朝顔』の巻である。雪の大層降る晩、源氏は、自分が関係した女性方のことを紫上に語って聞かせる。夜は更け、月はいよいよ澄みわたり、氷で閉ざされた遣水などの風情が誠に趣深い晩である。源氏の話を聞いていた紫上が、ふと歌を口ずさむ。
  『氷とぢ 石間(いしま)の水は行きなやみ 空澄む月の影ぞ流るゝ』
  この歌の解釈を、どの解説書も単なる嘱目の景としているのである。私が常に参考にしている二つの解説書の訳をみてみよう。
  「石の間の水は流れかねており、(夜も更け)大空に澄む月の光は、いかにも西へと流れて行く」 
                                                           岩波書店 『日本古典文学大系』
  「地上は氷に閉ざされて石間の水も流れかねておりますが、天上では月は冴えわたってとどこおりなく西に流れてゆきます」                                                                角川書店 『源氏物語評釈』
  谷崎潤一郎や円地文子や瀬戸内寂聴などの大作家の訳も同じである。
  しかしこのように訳したのでは、いかにも理に合わないことになりはすまいか。そこで、私は「源氏物語たより451」で次のように解釈しておいた。
  「(この歌は)単なる叙景の歌ではあるまい。上の句は紫上の心理状態を、下の句は源氏の様を寓したものであろう。つまり
  「私の気持ちはすっかり澱んでしまって行き場もありません。それに比べて、源氏さまは自由奔放にあちらこちらへと流れて行かれること」
という絶望的な心境を吐露しているのではあるまいか」

  このように私が訳したのは、源氏が過去(あるいは現在)に関係した女性方の話をしんみり語っている時に、氷が張った遣水と、空を行く澄み渡った月を見て、紫上が先の歌を詠うというのは、どう考えてもおかしいからである。それでは源氏の話を聞いていなかったことになりはしまいか。
  そんなことはないのであって、彼女は全身全霊を耳にして源氏の話に聞き入っていたに違いないのである。源氏は、うっとりとしながら故藤壺宮のことを、朧月夜や六条御息所や朝顔のことを、あるいは明石君のことを語っている。それを平静な気持ちで聞いていられる女などあろうか。
  特に朝顔は、現在紫上を最も悩ませている女性である。源氏は真剣に朝顔を愛しているようだし、やがては正妻として迎えるかもしれないのだ。同じ宮様の娘と言っても、朝顔はれっきとした育ち、それに対して自分は母親を早く亡くし、父宮も一切自分に関わってくれない。とても勝負にならない存在で、負け犬の嘆きを余儀なくされるしかないのである。
  と、そんな心境でいる時に、暢気に「氷とぢ石間の水は・・」などと歌を詠っていられるであろうか。紫上は感受性の鋭い人である。源氏の女性遍歴譚には、確かに反省もあるかもしれないが、自慢もほの見えするのである。恐らく、彼女の心の中には、嫉妬と不安と、男・女の生の不条理とが渦巻いていたかもしれないのだ。あるいは、憤りの気持ちも沸々と湧いていたかもしれない。

  今回、今井源衛の「紫林照径」を読んでいたら、ずばりこのことが主題になっている一文があった。彼は、この「氷とぢ」の歌について
  「古来諸注の説くところは、はなはだ簡単である。・・いずれも単純な当座の純叙景歌ととっているのであろう。・・もし純叙景歌とみるならば、これは決して上出来な歌ではない。むしろ、声調、内容の上から言っても、下らぬ歌と評すべきである」
としたうえで、こう訳している。
  「氷に閉ざされた石の間の水は滞っているけれど、空に澄む月影は流れてゆく。――私は家に閉じ籠って悩んでいる女の身なのに、あなたは作りごとばかりおっしゃって、家に落ち着いてもいらっしゃらない、そのお顔を見ると泣けてきてなりませんの」
  見事と言わざるを得ない。
  
  実はもう何ケ所か、国文学の大家の方々が気づかない重大な過ちを、私は源氏物語を学び始めた当初から気づいているところがあるのだ。その一つが『夕顔』の巻の
  『心あてにそれかとぞ見る、白露の光添へたる夕顔の花』
の解釈についてである。この歌について、多くの学者が言っているのが
  「夕顔が、路傍の源氏に詠いかけたもの」
という捉え方である。しかし、そうではない。源氏が一人ごちた
  『をちかた人にもの申す』
に「応えものなの」である。女から、路傍に停めた車の中の男に、突然歌など詠み掛けるはずはない。そんな取り方をするから、「夕顔は娼婦である」というような珍妙な解釈まで出て来てしまうのだ。これについては、「源氏物語たより1,3」などに詳しく書いたので、そちらに譲ることにする。

  もう一つは、やはり『夕顔』の巻の歌で、夕顔の屋敷があまりにも手狭なので、もっとゆっくり恋を語らおうと、源氏は彼女を六条の廃院に誘う。もの恐ろしげですごげな邸であったことが、一層彼女を不安にさせもしたのだろう、こんな歌を詠む。
  『山の端の心も知らで 行く月はうはの空にて影や絶えなん』
  この歌の解釈で、ほとんどの解説書が、「山の端」を源氏、「月」を夕顔として訳しているのだ。例えば先の岩波書房「日本古典文学大系」の訳はこんな風である。
  「山の端(源氏)の本心を知らなくて、誘われるままについて行く月(私)は、途中の大空で、きっと捨てられて、消えてしまうでございましょう」
  そうだろうか、まずおかしいと思うのは、天皇の子である源氏を「山の端」と譬えるなどと言うことがあり得るだろうかということである。天皇の子は太陽か月であろう。それなのに、五条のしがない女(夕顔)が月になるとは。これは全く逆である。
  「私には、あなたさまの御心がまだ全く分かりません。あなたさまは、いずれはあの月のように、大空の途中で姿を消してしまわれるのではないでしょうか。それが不安でなりません」
  今までも、源氏は顔を隠したまま、どういう人物であるかさえ教えることもなく夕顔と会っていた。まるで「変化の物」かのように夕顔の屋敷の者には思われていたのである。そんな最中、またまたこんな廃院に誘われた。夕顔が不安にならないはずはない。それが先の歌となって、ふと口からこぼれ出たのである。

  それにしても、国文学の大家である方々が、あるいは大作家と言われる方々が、こんな単純なことにどうして気が付かないのだろうか。
  それに紫式部という作家は、無駄なことは言わない、書かないという基本的姿勢を持っているということを忘れていないだろうか。源氏の話に、何の関連もなく「氷とぢ・・」などという歌を詠み出すはずはないのである。
  一介の源氏愛好家にすぎない私の方が、はるかに鋭い感性を持っている、と思わざるを得ないし、我褒めもしたくなるというものである。


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 郷愁
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏物語
  • 【源氏物語たより555】へ
  • 【源氏物語たより557】へ
 

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【源氏物語たより555】へ
  • 【源氏物語たより557】へ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。