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源氏物語

源氏物語たより559

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     仕掛けの巧みさ   源氏物語たより559

  「源氏物語たより558」で、「『手習』の巻はいろいろの意味で面白い」と言った。この巻を面白くしている要素に「仕掛けの巧みさ」が上げられる。仕掛けが、極めて有効に働いているのだ。浮舟にとっては辛いことかもしれないが、この仕掛けの結果が、何とも皮肉で厳しい笑いを誘うのである。

  浮舟が小野の山荘に来てから一年が経った。
  老母尼(横川の僧都の母)の孫である紀伊守が、見舞いにやって来た。ところが、老尼があまりに呆けていて話にならないので、浮舟がいる妹尼(僧都の妹)の所に四方山話にやって来た。その中で、彼は、薫に関する話を始める。実は紀伊守は、薫に大変親しく仕えている家人(けにん)であった。恐らくその関係で、紀伊守にしてもらっているのだろう。
  彼は、昨日も薫に従って宇治に行っていたと言う。薫の宇治行きの目的は、亡き人(浮舟)の一周忌の法要を営むために、宇治の山寺の律師に、しかるべきことをいろいろ依頼するためであった。そこで、紀伊守も法事用に
  『かの女(浮舟)の装束一領、調じ侍るべき』
よう考えたのだ。そしてこんなことを妹尼に頼んでいる。
   『(妹尼の所で)せさせ給ひてんや。織らすべき物は、急ぎせさせ侍りなん』
   「必要な織物(布など)は至急用意するから、どうかここで法事用の衣を調じていただけないか」というのである。
  聞いていた浮舟はたまらない。死んだ自分用の装束(奉物用であろう)をここで作ってくれないかというのだから。浮舟の顔はおそらく硬直してしまっていたのだろう、彼女は、いたたまれなくなって、奥に向かって座っているしかなかった。
  その後も、紀伊守と妹尼は、盛んに薫の話をする。紀伊守は、薫がいかに亡き女(浮舟)を愛していたか、また薫という人物がいかに優れているか、それゆえにいかに彼が薫に心酔しているかを、際限もなく話し続けるのである。

  妹尼は、例の装束を縫い始めた。自分の一周忌用の装束を妹尼が縫っている様を見るのは忍びない。しかし
  「それは、実は、私の・・」
などと言えるはずもない。
  『怪しく、珍らかなる心地すれど、(口に)かけても言ひ出でられず』
にいるのも当然のことである。この世にこんな不可解なことがあろうか。
  と、突然妹尼が浮舟に声をかけてきた。
  『これ、ご覧じ入れよ。物いと美しくひねらせ給へば』
と、小袿を浮舟に渡そうとする。浮舟が裁縫を大層上手にするのを知っていて、
  「あなたも一緒に裁ち縫いしてごらんなさい」
と言うのである。これにはさすがに浮舟も驚き呆れるしかなかった。今は亡き浮舟の小袿を、その本人が縫うという、世にも稀なる珍事が出来したのである。彼女は
   『「心地あし」とて、手も触れず臥し』
てしまう。もちろん妹尼は事情を知らないから、「心地あし」という浮舟を心配してすっかり動揺してしまう。妹尼の手の中には、紅に桜の織物の袿が握られていた。そして感慨深げにこう言うのである。
  「あなたに、こんな綺麗な衣装を着せたいものだわ。さぞ似合いでしょうに。それなのにあさましい墨染の衣でいらっしゃるとは・・」

  「宇治十帖」は、紫式部の作ではないという説もあるという。中には僧侶が作ったものであると言う人もあるのだそうだ。これらの帖には、死と生の狭間を描いた内容が多かったり、この世を厭って出家する問題が扱われていたりするからであろう。
  また、正編(幻の巻まで)に比べて、文体や言葉遣いが違うからという観点から、別人説を取る人もいるらしい。
  大野晋と丸谷才一の対談『光る源氏の物語』(中央公論社}を読んでいたら、円地文子も別人説を取っているという一文があった。
  「宇治十帖以前は、どんな端役の人間でもちゃんとその始末がついている。ところが、宇治十帖にくると人物の錯綜があって始末のついていないところがある、何か宇治十帖は雑である、あれはどうも別人の作ではないかと思われる」
と円地文子は言っているのだそうだ。
  一方、西郷信綱は、『源氏物語を読むために』(平凡社)の中で、
  「正編とは違うと予想する向きもあるけれども、その間、一人の作者でないと不可能なような主題的統一が存しており(作者は紫式部一人であるというしかない)」
と、確信を持って言っている。

  私は、宇治十帖は雑であるとは思わない。この『手習』の巻などはむしろ見事に完成された巻である。また、人間というものは、そう簡単に始末が付けられる存在ではないから、不可解なまま終わってしまうことも多いのではないだろうか。「始末がつかない」のもまた人間の宿命である。
  源氏物語の主題がいかなるものか、未だによく読み取れていない私には、正編と宇治十帖に主題的統一があるかどうかは分からないが、私がこの文章で言っている「仕掛けとその結果の見事さ」だけでも、紫式部以外にはできない技であると思っている。源氏物語における伏線の巧みさについては今までも何度も言ってきているが、ここで言う「仕掛け」も伏線と言っていいかもしれない。
  紀伊守の突然の登場は、単に薫の最近の様子や薫に心酔する紀伊守の心情を語るためのものではなかった。それは「自分(浮舟)の一周忌」の話に発展していくものであった。それにしても生身の本人がいる前で、「一周忌の法要」とは、あまりに皮肉ではないか。しかもそれだけでは終わらなかったところが、この仕掛けの見事さといえるのである。法要に奉る御衣を、妹尼が調達しようというのである。そればかりではない、その裁ち縫いを、亡き浮舟本人がする羽目になってしまうという、このブラックユーモアーは、紫式部以外の誰にできよう。
  正編にもこのような皮肉な滑稽は盛んに駆使されていた。例えば『末摘花』の巻などはその典型と言えるであろう。しかし、『末摘花』の巻と決定的に違うのは、この巻には終始温かい情が流れながらの皮肉であるということである。妹尼が、「この衣を一緒に縫いましょう」と声をかけたのは、憂いに沈んでばかりいて心を開こうとしない浮舟を、少しでも慰めようという意図があるからである。彼女の声掛けが、浮舟にとって、いかに辛いことに繋がっていくかは知る由もなく、あくまでも妹尼の善意から出た行為なのである。善意が呼び起こした辛いユーモアーということである
  この一点をもってしても、源氏物語は紫式部以外には不可能な不朽の名作となったのである。



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